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2014年12月28日(日) 感謝礼拝
「神が私たちに望まれること」 <Tテサロニケ5:16−18>
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
序論:この時期は忘年会シーズンで嫌なことを忘れることに重きが置かれると思います。
その気持ちもよく分かるのですが、私たちは嫌なことを忘れることに重きを置くのではなく、良かったこと、神様に感謝することに重きを置きたいと思います。
さて、教会が健全に建て上げられることを願ってパウロはテサロニケの教会へ手紙を書いています。
これは現代の教会にも送られているパウロからの手紙であり、神様からの手紙だと言えます。
神が私たちに明確に望んでおられることが3つあります。
その3つとは、1)いつも喜んでいること 2)絶えず祈ること 3)すべての事について、感謝すること。 これが神の御心です。
この3つの資質が初代教会と初代のクリスチャンたちに見られました。ですから福音が拡大していったのです。
この手紙を書いたパウロ自身はどのようにしていたかを見たいと思います。
この箇所を通して、喜び、祈り、感謝について多くのことを学ぶことができます。
パウロは自分自身が苦しいところを通ったので、彼の言葉にはとても重みがあります。
使徒の働き16:19−34
16:19 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。
16:20 そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、
16:21 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」
16:22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、
16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
16:27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。
16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。
@いつも喜んでいなさい。
私たちが喜んだり悲しんだりするのは、たいてい物事の表面に起こっている現象だけを見て、そうしているものだと思います。
確かに、毎日の生活の中で、嫌なこと、心配しないではいられないこと、悲しいこと、苦しいことがあります。
その時、私たちの心がいつもそうした外側のことだけに左右されていたのでは、本当の喜びを持つことはできないでしょう。
問題は起こります。問題はやってきます。それを私たちは選ぶことはできません。けれどもそれにどう対処するかは選ぶことができます。
すなわちその状況にあっても喜ぶのか、それとも悲しむのか。
この箇所におけるパウロは決して喜べる状況ではありませんでした。でもパウロは喜び賛美をしています。喜ぶことを選び取ったのです。
私たちの環境も時には、牢獄のように感じることがあるかもしれません。
パウロは、「私が神を喜び賛美することを選び取ったように、あなたがたも喜ぶことを選び取りなさい」と勧めています。
この喜びは、あらゆる環境に支配されることのない、キリストの福音に基づく喜びです。
状況が良いから喜びます、ということではいつも喜ぶことは不可能です。でもパウロは私たちにいつも喜ぶことを命じています。
私たちには環境に支配されない喜び、決して消えることのない喜び、この世が与えることのできない喜び、イエス・キリストが与えてくださる喜びがあります。
私たちには、喜ぶ理由があります。
私は救われている。罪が赦されている。永遠のいのちが与えられている。天国に行くことができる。神の子である。神がいつも共にいてくださる。
だから私は主イエス・キリストにあって神を喜ぶことができる。聖霊によって喜ぶことができる。
すべてのことが最後には益に変えられると知っているので喜ぶことができます。
状況を喜ぶということではなく、神を喜ぶということです。
嬉しい時、順調な時は喜べますが、喜びますが、悲しい時、逆境な時は喜びません。喜べません。
それではこの世と変わらないし、みことばに従うこともできません。
喜びは選び取るものです。悲しんでいるなら、それはどこかで悲しむことを選び取っているのです。喜んでいるなら喜ぶことを選び取っているのです。
心を点検してみましょう。
選び取っていつも喜ぶことを神は私たちに望んでいます。
神が望んでいるから、神が望んでいるなら、私は神が望んでおられるいつも喜ぶことを選びます。
でもね、、、と言ってしまうなら、どうどう巡りを繰り返すだけで、何も解決しません。
「喜び」があるところに神は働かれます。→解放、看守の救い、家族の救い、ピリピ教会の誕生。
もう一度言いますが、「喜ぶ」ということは、選択です・決断です。
A絶えず祈りなさい。
祈りも同じです。祈らないことを選び取る理由はたくさんあります。忙しいから、眠いから、祈る気分ではないから、信仰に満ちていないから。
大事なことは祈ることを選ぶことです。時には不信仰でもいい、時には熱心でなくてもいい、と私は思います。
私たちは人間ですから、いつも信仰充満というわけにはいかないでしょう。私も不信仰になることがあります。
でもそれを祈ることをやめる理由にはしたくないのです。神様は私たちの不信仰を理解してくださると私は思います。
でも大事なことはどんな状況でも祈ることを選び取ることです。それを神は私たちに望んでいるのです。
祈れば祈らないよりも神のみわざを体験できる可能性が間違いなく高まります。
神様は祈りを通して私たちが神の力を体験することを願っています、望んでいます。
だから絶えず祈りなさいと勧めています。パウロとシラスのようにどんな状況にあっても祈る者でありたいと思います。
Bすべてのことについて感謝しなさい。
感謝も同じです。自分にとって良いことだけを感謝するのは誰にでもできます。簡単です。
パウロが命じているのは、良いことだけではなく、悪く見えることについても感謝しなさい、すべてのことについて感謝しなさいです。
難しいでしょうか?難しいと思います。できないでしょうか? 難しいけれど、できる、可能だと思います。
これも選び取ることです。
起こった出来事について不平不満を言うこともできますし、感謝の言葉を言うこともできます。結局は神様に対しての信頼の問題だと思います。
私たちの神様は良い神様ですか、悪い神様ですか? 私たちの天のお父さんは愛に満ちたお父さんでしょうか、それともいじわるのお父さんでしょうか?
もし私たちが神様を心から信頼し、私の天の神様は良い神様で愛に満ちたお父さんであると信じているなら、感謝することができます。
今自分に起こっている出来事は、神様の御手の中にあるからです。偶然は一つもない、主にあって必然である。
主は長い目で私の人生にご計画を持っておられる。
今は自分にとって喜ばしい状況ではない、祈れる状態ではない、感謝できる環境でない、でも神様はこのことも益に変え、最善に変えてくださるに違いない、
いや必ず変えられる。そうであるならば、主よ、あなたを喜びます、あなたに祈ります、すべてのことについて感謝します、と考え方が変わります。
現実の環境や状況ではない、また自分の感情でもない、変わらないみことばに心を留める。これが神が私たち一人ひとりに望んでおられることです。
これは簡単なことではないと私はよく知っています。自分もできないことが多いです。これは個人と教会に対するチャレンジです。
これは大きな文脈で言えば教会に充てて書かれ送られている手紙です。パウロは教会が健全に建て上げられることを願って手紙を書いています。
今日、パウロから私たちの教会にこの手紙が届いたと想像してみましょう。そうするなら、この手紙に更に重みが出てくるでしょう。
でも、まずは個人です。他の人ではなく、自分からです。感情と肉の赴くままに生活し、すべてのことについて不平不満を言っていたら、どうなるでしょうか?
苦しいクリスチャン生活になってしまいます。
もし教会において、皆がこのみことばを実行したら教会はどうなることができるでしょうか?教会は今よりきっと明るくなります。
これが神様が教会に望んでおられることなのです。そのような教会共同体がこの世に魅力のあるものになります。
この世はほとんどの場合、環境と感情に左右されて生きていると思います。
でも私たちはそうではなく、変わらない神様がいるので、喜ぶことができ、祈ることができ、感謝を捧げることができるのです。
この一年、それぞれ様々なことがあったと思いますが、感謝をもって一年を終えましょう。
また、余市カナンの丘キリスト教会が始まったことを覚えて、感謝を捧げて、一年を終えましょう。
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2014年12月21日(日) クリスマス礼拝
説教題 「喜びの知らせ」 <ルカの福音書2:1−20>
2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、
主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
メリークリスマス! クリスマスはイエス様の誕生をお祝いする日です。今年は西暦2014年。イエス様が生まれてから2014年。
最初のクリスマスから2000年以上が経ちました。それでも全世界でお祝いされていることは驚きです。
しかし、驚きではない、とも言えます。
それくらいにイエス様が素晴らしいお方であるからです。
クリスマスは喜びの知らせ(ニュース)です。喜びの知らせの内容は、「救い主イエス・キリストのご降誕(誕生)」です。
クリスマスは全世界で喜びを分かち合う時です。
イエス様がお生まれになったのが12月25日だと断定できる証拠はありませんが、ある時から冬至のこの頃にクリスマスの日を決めました。
日時のことはさておき、イエス・キリストがお生まれになったのは、紛れもない歴史的な事実で、そのことを覚えるのがクリスマスです。
@1−7節 地上的誕生
1−3節 イエス様の誕生の歴史的背景が示されます。
イエス・キリストは、決して空想的な人物ではなく、歴史に実在し、この地上を歩まれた歴史的人物です。
ルカは医者であり歴史家でもありました。ルカの福音書を通して、ルカは時と場所と状況を提供しています。
1節 皇帝アウグスト これは名前ではなく称号です。 キリストも称号。救い主という称号です。イエスが名前です。
イエス・キリストとは、救い主であるイエス。
アウグストの本名はオクタビアヌス。彼は紀元前31年〜紀元14年の間、ローマ帝国の皇帝でした。
アウグストゥスは全世界の救世主と言われていました。非常に目立つ存在でした。
しかし、本当の救い主であるイエス様は、ひそかにベツレヘムでお生まれになりました。
4節 ナザレ→ベツレヘム 直線距離で120キロ 困難な旅行であったはずです。
7節 イエス様誕生 世界で最初のクリスマス
宿屋には彼らのいる場所がなかった。今であれば、どんな高級ホテルでも一番良い部屋を用意して幼子イエス様をお迎えするのではないでしょうか。
しかし、最初のクリスマスではイエス様をお迎えする場所はありませんでした。私たちはイエス様をお迎えする心の部屋を用意しているでしょうか。
願わくはイエス様をお迎えする心の部屋があるならば幸いです。
イエス様は王宮ではなく、家畜小屋の汚い場所に生まれてくださいました。
私たちの心がたとえ汚くてもイエス様に心を開き、心に部屋を用意するならばイエス様は来てくださいます。
ピリピ人への手紙2:6−8
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
クリスマスは、神が人になったということです。神であるイエス・キリストが、神のあり方をお捨てになって、人となられたのです。
それは十字架に架かり、人間を救うためです。
A8−14節 天的誕生
8節 羊飼い
9節 天使(天からのメッセンジャー)が現れた。主の栄光。闇→光。
10節 素晴らしい喜びの知らせ。
喜びの知らせの内容 11節 「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。」
マタイの福音書1:21 何からの救いか。罪からの救いです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
12節 しるしは何か。 布にくるまって飼い葉桶に寝ておられるみどりごです。
13−14節 天使の賛美 いと高きところ(天)に栄光が神にあるように。地の上に平和があるように。人々の上に御心がなりますように。
イエスは人の子であるけれども、神の子でもあることが示されます。
B15−20節 羊飼いたちとイエス様の出会い
1)誕生した救い主を捜し求める 15,16節
15節 この出来事を見てこよう。 素晴らしい行動力
急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
彼らは天使が言ったことを信仰で受け止めました。
イエス様はベツレヘムで生まれました。その当時ベツレヘムの人口は2千人くらい(余市の人口は2万人)であったと言われています。
しかし、この時は人口調査があり、村はごった返していました。いくら小さな村とはいえ、誕生した赤ちゃんを捜し出すのは困難であったはずです。
しかし、彼らは天使の言葉に従って、家畜小屋(飼い葉桶)を探したので、意外と早く見つかったのかもしれません。
現代は多くの情報でごった返しています。その中で正しい情報を見つけることは簡単なことではありません。
しかし、熱心に捜し求めることが大切です。
途中であきらめてしまったら、羊飼いたちは救い主に会うことはなかったでしょう。熱心に捜し求めることが必要だったのです。
また彼らは自分勝手にみことばを解釈することもしませんでした。
飼い葉おけ?そんなバカな? 救い主は王宮で生まれるだろう、とは考えませんでした。
しかし、彼らはみことば(救い主は飼い葉桶に寝かされている)が与えられていたとしても、想像し期待していたものとは違い、がっかりして、
つまずく可能性が大いにありました。中世の絵画を見ると、幼子イエス様の頭の上に光の輪がある絵が多いです。
でも実際はそのような光の輪はなく、本当に普通であったはずです。
でも、羊飼いたちはつまずかずに、信仰で受け止めました。
イエス様のことが今日すべては分からないと思います。でもイエス様を、真理を捜し求め続けることが大切です。
そうすればこの羊飼いたちのように、ついにはイエス様に出会うことが必ずできるでしょう。
私たちも更にイエス様を深く知るために求め続けていきましょう。
2)救い主の誕生を伝える 17節
17節 知らせた。 見たこと、聞いたこと、体験したことを話した。
それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。もちろん知らせた中心は両親のヨセフとマリヤだったと思います。
羊飼いたちは捜し当てたことで満足することなく、近くにいた人々にこの知らせを伝えました。
英語の聖書ではSpread the Word が使われています。「言い広めた」という意味です。
10節に書かれているように、この民全体のためのすばらしい喜びの知らせになるために、彼らはイエス様のことを言い広めたのです。
私たちは「ハッピー・クリスマス」で救い主イエス様のことを言い広めましたが、来年更に様々な方法を通して、この羊飼いたちのように
言い広めていきたいと思います。
18−19節 ルカは福音書を書くために、イエス様のお母さんであるマリヤから話を聞いたと思います。
3)救い主の誕生を賛美礼拝する 20節
20節 神をあがめ、賛美した。
羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
14節で天における賛美を聞きました。今度は羊飼いたちは自分たちが賛美をするようになりました。
私たちも今日救い主イエス様のご降誕を覚えて賛美していますが、来年もいよいよ礼拝共同体として、神をあがめ賛美する群れとなっていきましょう。
羊飼いは貧しい職業であったようです。野宿で夜番をしていました。暗い人生だったと言えると思います。
しかし、天使が来て、主の栄光(光)が回りを照らしました。まさに光が闇を取り去ったのです。
羊飼いたちは天使によって、喜びの知らせを聞き、そして救い主イエス様にお会いし、神をあがめ、賛美しました。
この体験は彼らの人生を変えました。
このイエス様との出会いを通して、彼らはその後の人生において苦しい中でも、彼らは希望を持って生きていくことができたはずです。
今日、神様はお一人お一人にこのように語っておられます。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
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2014年12月14日(日)
説教題 「新しい時代の働き人」 <マタイの福音書11:2−19>
11:2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、
11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」
11:4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
11:5 盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。
11:6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
11:7 この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
11:8 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。
11:9 でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。
11:10 この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。
11:11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。
11:12 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
11:13 ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。
11:14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。
11:15 耳のある者は聞きなさい。
11:16 この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、
11:17 こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、
11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、
その行ないが証明します。」
昨日は私たちの教会で最初のクリスマス伝道集会(ハッピークリスマス)を持ちましたが、参加者が全部で大人29名、子供3名の合計32名が集まって下さいました。この内ノンクリスチャンが14名もいました。これは本当に感謝なことです。主の御名を賛美致します。
さてこの二週間、働き人の心得と働き人の十字架を見てきました。今日は、新しい時代の働き人と題して語ります。
@ つまずかない者は幸い 2−6節
2節 バプテスマのヨハネは獄中にいました。 マタイ4:12
4:12 ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。
ヨハネは約1年間獄中で過ごしていたと思われます。獄中でキリストのみわざについて聞いていましたが、彼の確信が揺らいだのだと思います。なぜなら彼が
期待していたメシヤ像と違っていたからです。おそらく彼は悪人を裁くメシヤを思い描いていたのではないでしょうか(マタイ3:10〜12)。ですから、自分が想像し
期待していたメシヤ像とイエス様が一致しなかったのです。そこで自分の弟子たちをイエス様の元へ送ります(3節)。
4−6節 イエス様の答え。
ここで見たり聞いたりしたことを報告しなさい、と彼らに言われます。すなわち病が癒され、福音が宣べ伝えられています、イザヤ書のメシヤ預言が成就されています、と。
35:5 そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。
35:6 そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。
捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
聖書で預言されているメシヤ預言がご自分において成就していることをイエス様は示そうとされました。そしてヨハネの弟子たち、バプテスマのヨハネが、自分が
信じるメシヤ像ではなく、真のメシヤ像を信じるようにと励まします。
この時代も同じことが言えます。クリスチャンでさえそうである場合があります。聖書ではなく、自分たちが期待するメシヤ像(イエス様)を信じようとします。
真のイエス様像はここにあります。5節です。イエス・キリストは救い主であり、癒し主であるということです。
私たちにはその真のメシヤ像(イエス・キリスト)を報告する、知らせる役割が与えられています。そのような意味で昨日のハッピー・クリスマスにおいて賛美や劇、
メッセージを通して鍛冶川先生とチームの皆さんがばっちりと真のメシヤ像を伝えてくださったことは本当に感謝でした。
あとの判断は聞いた人たち自身に任されます。人々が自分たちで聞いたこと見たことを考えるわけです。あのバプテスマのヨハネでさえ揺らいだというのは
驚きであり、多くの人々が真のメシヤ像を握ることができなく、つまずいてしまうのはある意味仕方がないのかもしれません。でも願わくは昨日参加された
お一人おひとりがつまずかないで、救い主イエス様と出会って信じて欲しいと思います。
私たちは自分たちが見たり聞いたことを伝えるだけです。私たちがイエス様のみわざを更に見て、聞くことができれば、私たちの語る証しはもっともっと力強く
なるはずです。
本当につまずかい者は幸いです。つまずく者が多いからです。
つまずかないようにしようとあまりにも気をつかうなら、私たちはイエス・キリストではなく、キリスト教を伝えることになってしまうでしょう。キリスト教という宗教、
道徳を伝えることになってしまうでしょう。それでは、あまりつまずきは起こらないかもしれませんが、律法的になってしまい、いのちを失ってしまいます。
それではつまずきが減るかもしれませんが、救いと癒しは全く起こらなくなります。
ただ福音の伝え方においては人々につまずきを与えない努力をする必要がクリスチャンと教会にはあります。分かりやすさが大切です。現代的なセンスも必要です。また来られた方々に誠実に接し、親切を表すことも大切です。そのような欠如によって人々につまずきを与えてしまうなら、それは私たちの責任です。
しかし、伝える内容を変えてつまずきを減らす努力をしてはいけません。内容においては妥協してはいけないのです。例えば、神の愛だけを信じている人にとって、
神の義による神の裁きはつまずきになることがあります。イエス・キリストの教え(例えば、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい)だけを信じている人は、
イエス・キリストの十字架につまずきます。イエス・キリストの十字架だけを信じている人は、イエス・キリストの復活と再臨につまずきます。御霊の実だけを信じて
いる人は、御霊の賜物である癒しなどにつまずきます。つまずく原因はたくさんあります。
私たちはつまずきを避けるために、聖書のメッセージ(真のメシヤであるイエス・キリスト)を伝えるのをやめるべきですか。いいえ、断じてそうではありません。
やめるべきではありません。私たちはもちろん神の愛を語りますが、神の裁きも語ります、イエス・キリストの十字架と復活、再臨を語ります、今も働かれる聖霊を
語ります。自分たちが見たり聞いたりしたことを吟味しなければなりませんが、すべてを語ります。語り続けます。すべてを報告します。報告し続けます。
つまずきは避けられません。イエス様はそのことをよくご存知です。だから、おっしゃいます、つまずかない者は幸いです(6節)、と。つまずく者が多いからです。
A新しい時代 7−11節
9−11節 イエス様はバプテスマのヨハネが預言者以上の存在であると言います。そして女から生まれた者の中で最も優れた者であると彼を絶賛しました。
彼がイエス様を疑ったにも関わらずにです。
その理由は彼がメシヤの道を備えたからです。彼こそ、旧約の古い秩序の中での締めくくりの役割を果たし、更にまた新約の先駆けとして先駆的な役割を果たした、神から特別に選ばれた人物でした。
しかし、驚くべきことに、このヨハネよりも天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大である、とイエス様はおっしゃるのです(11節)。
イエス様の到来は、ヨハネまでの時代と明白な一線を引くことになったことが分かります。私たちがヨハネより偉大であるとは思えません。そうではなく、偉大な立場が与えられたということです。それは神の子という立場です。またイエス・キリストの十字架と復活の福音を宣教するという偉大な使命が与えられている、ということです。これはバプテスマのヨハネまでの時代にはなかったことです。彼らは神様のことを父なる神とは親しく呼べませんでした、十字架と復活による明確な福音が明らかに
されていませんでした、聖霊が注がれていませんでした。しかし、今は全く新しい時代なのです。父なる神の愛が明らかにされ、イエス・キリストの救いが明らかにされ、聖霊の働きが明らかにされているのです! ハレルヤ! 私たちは新しい時代の働き人なのです。
B批判精神から解放されよう 12−19節
12節 ここはいろいろな解釈があると思いますが、一つ言えることは、天の御国はヨハネの時以来、この地上で始まっているということです。福音の時代が到来
している、ということです。
ルカの福音書16:16 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています。
13−15節 旧約(律法と預言者)の時代から新約(福音)の時代に移っている。その役割を果たしたバプテスマのヨハネは偉大でした。彼は旧約と新約の橋渡しを
した人物でした。
16−19節 笛を吹き、歌を歌っているのはヨハネやイエス様のことです。
仲間に加わらなかったのがその時代の人々です。
ヨハネが断食すれば批判し、イエス様が食事すれば批判します。結局のところどちらにしても批判するわけです。人々は食べても食べなくてもどちらにしてもヨハネと
イエス様を批判しました。ここに人の性質が表れます。
批判的な精神から解放されましょう。批判的精神はイエス様の働きと教会を壊します。私たちが批判的精神から解放されるようにと願います。あら捜しをするのは
やめましょう。つますく要素が教会にはさまざまあることでしょう。しかし、イエス様の「わたしにつまずかない者は幸いです」というみことばに励まされつつ、
つまずかないという決心をしましょう。
そして今が新しい時代であることを覚え、その時代に働き人として神と人々のために働けることを感謝して歩んでいきましょう。
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2014年12月7日(日) 聖餐式
説教題「働き人の十字架」 <マタイの福音書10:24−11:1>
10:24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
10:25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、
ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。
10:26 だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。
10:27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。
10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を
恐れなさい。
10:29 二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
10:30 また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
10:31 だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
10:32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。
10:34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
10:35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
10:36 さらに、家族の者がその人の敵となります。
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者では
ありません。
10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
10:40 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。
10:41 預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。
10:42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」
11:1 イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。
先週、働き人たちの心得と苦難を見ました。今日も続いて働き人の心得を見ていきたいと思います。特に働き人の十字架です。
1.働き人の勇気 24−33節
26節 働きをする中で、人々から誤解され、中傷され、非難されることがあるでしょう。イエス様は、働き人たちに、苦難はあるが、勇気を持って語り、前に進むことを
命じられます。使徒たち、弟子たち、働き人たちは、イエス様の働きを継承すると共に苦難をも共に継承します。
しかし、恐れてはいけません。最後の裁きの時にすべてが明らかにされ(26節)、神様からの報いがあります。
27節 イエス様から教えられたことを、言い広めることが働き人の使命です。
28節 再び、恐れてはなりません、と言われます。
人を恐れてはいけない、神を恐れなさい。人は人間のからだを殺すことができるかもしれませんが、魂は殺すことができません。しかし、神は魂も体も共に
ゲヘナ(地獄)で滅ぼすことができます。ですから、人ではなく、神を恐れなさい、とイエス様はおっしゃいます。
31節 三度目の恐れることはありません。
スズメでさえ神は気を配っています。ましてスズメよりはるかにすぐれた人間であるあなたがたに配慮しないことがありましょうか。あり得ません。父なる神様は、
私たち働き人のことを配慮してくださいます。働き人が直面する苦難に同情してくださいます。
ヘブル人への手紙4:15
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに
会われたのです。
32−33節 イエス様に対する態度が永遠を決めます。
A働き人の十字架 34−39節
34節 イエス様は平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来たと言います。しかし、イエス様は平和の君であります。聖書全体の大きな文脈で見れば
イエス様は平和の君です。平和をもたらすためにこの地上に来られたのです。
イザヤ9:6
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
イエス様は人類にとって、平和の君です。イエス様は、罪人である人間が神と和解する唯一の仲介者です。私たちはイエス・キリストを通して、神との平和が
与えられます。ではここでの、平和ではなく、剣をもたらすために来た、とはどういうことでしょうか。これはイエス様の働き人たちにとっては、イエス様の弟子たちに
とっては、イエス様について行く者たちにとっては、という意味です。それがここの文脈です。聖書の解釈で一番大切なことは文脈の中で理解することです。
そうでないと聖書の解釈を間違い誤ることがあります。ここの箇所は弟子たちを伝道旅行に遣わす前に弟子たちに語り、注意を与え、心得を教えておられる場面です。ですからイエス様は平和の君であり、平和をもたらすためにこの地上に来られたのですが、働き人たちにとっては、剣(争い)をもたらすことがあります、と教えられて
いるわけです。
剣ですが、具体的には、特に家族関係に分裂が起こることが教えられます。35−37節 21節でも言われていました。
38節 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
パウロは書いています。ガラテヤ2:20
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に
生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
ジョン・バニヤン(17世紀・イギリス)の背負った十字架。
彼は、福音を語れば、牢獄に入れられると分かっていても、神と自分の良心に従い説教し、獄中に12年間入れられ、家族と離れ離れになりました。
彼は十字架を背負ってイエス様について行きました。
B働き人の報い 10:40−11:1
神は報いてくださいます。働き人を助ける人も報いにもれることはありません。
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2014年11月30日(日)
説教題 「働き人の心得」 <マタイの福音書10:1−23>
10:1 イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。
10:2 さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
10:3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、
10:4 熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。
10:5 イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。
10:6 イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。
10:7 行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。
10:8 病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
10:9 胴巻きに金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。
10:10 旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。
10:11 どんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。
10:12 その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
10:13 その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。
10:14 もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを
払い落としなさい。
10:15 まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。
10:16 いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。
10:17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。
10:18 また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。
10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。
10:20 というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。
10:21 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。
10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
10:23 彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。
1.使徒の任命 1−4節
早速、収穫のための働き人として、イエス様は十二使徒を任命し、彼らに権威を授けて、遣わします。使徒とは、使命を帯びて遣わされる者、という意味です。
私たちは厳密な意味で使徒ではないかもしれませんが、使徒的な働きをする者として召されています。権威が与えられ、この地域へと遣わされています。
マタイ28:18−20
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと
ともにいます。」
2.使徒の心得 5−15節
ここでは遣わされる者たちへの心得がイエス様から教えられています。
私たちがする宣教の内容は7節。 「天の御国が近づいた。」 これはイエス様が伝えた内容と同じです(4:17)。
8節 宣教にはしるしが伴います。 病人の癒し、悪霊追い出し。
マルコ16:15−18
16:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
16:16 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
16:17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
16:18
蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
現代の日本ではなかなか9−14節に書かれているような宣教旅行をすることはないかもしれません。
私は10年前のパプアニューギニア宣教旅行でここで書かれているような宣教旅行をする機会がありました。その証しをしたいと思います。神様は不思議を
なされます。
イエス様は大宣教命令で弟子たちを遣わす前に、約1ヶ月実地訓練で弟子たちを遣わしました。私にとっても実地訓練のようなものだったと思います。
10年前に3週間、ニュージーランドの聖書学校で一緒だったパプアニューギニアの友人の牧師(セント)から招かれ、パプアニューギニアへ宣教旅行へ行く機会が
与えられました。パプアニューギニアの村や町へ行きました。彼らは西洋人の説教者は多く見ていたようですが、アジア人の説教者は始めてだったようです。
どの村へ行ってもとても大歓迎を受けました。こんなにも歓迎されたのは今までありませんでしたし、それ以来これまでもありません(笑)。
私がどこへ行っても人々が集まり、ついて来ました。イエス様の宣教旅行は(もちろん私のとはレベルが違いますが)、このようだったんだろうなあと思いました。
休む時が本当にないのです。そのような中で(友人の家が一応拠点でしたが)、毎日のように歩いて(時にはヒッチハイクして)移動して、通訳者の友人と2人で
(時にはチームで)、旅行をし、教会へ行き、説教し、その家に泊まらせてもらいました。1週間が経過すると私はくたくたに疲れてしまいました。日曜日の午前礼拝で、通訳者であり友人である牧師の教会で説教をしました。
はじめの一週間は主に村での伝道でしたが、月曜日の夜から町での伝道が控えていました。本当は月曜日に移動する予定でしたが、その礼拝に友人のいとこ
(コンジル)が礼拝に出席しました。彼は町からわざわざ出席してくれたのです。私が疲れていて気の毒に思ったのでしょう、友人とこのいとこが日曜日の夜はゆっくり休むといい、町へ行き、いとこの家へ行き(彼の家は電気が通って、テレビもあるというパプアの中ではとても文明が発展していました、村では電気は通っていません
でしたし、もちろんテレビなどはありませんでした)、オリンピックを見て休もうということになりました。
そして昼食を食べてから早速移動を開始しました。彼の車はトラックでしたが、その後ろに礼拝に来ていた人をたくさん乗せて町の方へ出発しました。彼らは何時間も歩いて礼拝に毎週来ているのです。何という神様に対する飢え渇きでしょうか。彼らの家の近くまで行き、降ろしていきながら、いとこの家へ向かいました。そして最後の人たちを降ろそうというぐらいの時に(道がでこぼこで移動に何時間もかかるのです)、向こうから人々がトラックに向かって駆け寄ってくるではありませんか。
「おーい、待っていましたよー。やっと来ましたかー。」と言うのです。何のことか友人も私もさっぱりです。すると彼らは続けます。「もう人が集まり始めています。
もうすぐ集会です。説教者はあなたですよ」と言うのです。
そう、あなたとは私のことです。友人も私も全く聞いていませんでした。私のうわさが広がり、特別に私を説教者にしていくつかの教会が協力して、日曜日の夜に
集会を計画していたのです。本当に驚きです。彼らは私たちに連絡しないで私たちが来ると思っていたのでしょうか。未だによく分かりません。本当に不思議です。
とにかく私たちはネクタイをしめて、ひとまずオリンピック観戦をあきらめて、その教会へ行きました。確かに私の名前が書かれてあって、歓迎しますと書かれて
ありました。教会にあまりにも人がたくさん集まっていて、前へ(説教する場所へ)行くのも一苦労でした。賛美が始まっていました。教会の中は超満員でした。
教会といっても横の壁などはなく、下は草、上に屋根があるだけです。教会の外にも人が溢れていました。おそらく500人ぐらいいたと思います。
ものすごい活気でした。そして賛美が終わり、私の説教になりました。正直私はオリンピック観戦でゆっくりしようと思っていて説教の準備をしていませんでした。
しかし、私は気持ちを入れ替えて説教を始めました。聖霊の油が注がれました。それを感じたのです。このようなことはいつもあるわけではありません。
いえ、めったにないといえるでしょう。その集会は本当に聖霊の臨在に溢れた、言葉では言い表せないほどに素晴らしい集会となりました。
実行委員ともいうべき牧師たちが非常に喜んでくれました。「地域の教会が協力して教団教派を越えてこのような集会を開くことはほとんどないのですが、
あなたが来てくれたおかげでこのように地域にとって意義のある素晴らしい集まりとなりました」と言ってくださったのです。
帰りの車の中で友人といとこと話しました。「今日村から町へ移動して良かったね。もし予定通り村にいたら、今日の集会を体験できなかったね。
そもそも私たちが行かなかったらあの集会はいったいどうなっていたんだろうね。」................ その夜、オリンピックを観戦しました。
私が言いたいのは、神様は不思議をなされるということです。私たちが宣教旅行へ行く時に、神様は不思議をなされ、働いてくださるのです。
3.使徒の苦難 16−23節
伝道の働きをするために立ち上がると、反対が必ずあります。
普通にクリスチャン生活をしているだけなら、反対はあまりないかもしれません。しかし、いったんイエス様のために働きをしようとすると、反対と苦難に
直面することになります。
ですから、覚悟しなければなりません。イエス様は使徒たちとまた私たちを不安にさせるために言ったのではなく、心の準備をさせるために言っているのです。
国家権力を敵にまわすことがあり得ます。実際多くの国でこれらの苦難にあっているクリスチャンが大勢います。日本においても過去に殉教の歴史がありました。
これからの時代どうなるか分かりません。
なぜ苦難にあい、迫害にあうか。それは、18節 わたしのゆえに イエス様のゆえ なのです。私たちのゆえではないのです。
20節 話すのは、私たちのうちにおられる父の御霊、聖霊様です。
苦難にあうのはイエス様のゆえであり、話されるのは聖霊様です。父なる神様が御霊を備えてくださるのです。
反対は、国家権力だけではなく、もっと身近なところからも起こりえます。それは家族です。21節 これは非常に残念ですが、起こります。家族関係が壊れ、
家族に分裂が起こることがあります。これは耐え難い苦痛です。
22節 すべての人々に憎まれるかもしれません。それはイエス・キリストの名前のゆえです。 それでもイエス・キリストについて行く者が本物の弟子です。
しかし、希望があります(22節)。 最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
黙示録2:10 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
23節 宣教の働きに終わりはありません。イエス様が再臨されるまで宣教の働きを私たちはし続けなければなりません。私たちが伝道し、働いている時に
イエス様が帰って来られるなら幸いです。
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2014年11月23日(日)
説教題 「主よ、働き人を送ってください」 <マタイの福音書9:18−38>
9:18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、
娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」
9:19 イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。
9:20 すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。
9:21 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。
9:22 イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。
9:23 イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、
9:24 言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。
9:25 イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。
9:26 このうわさはその地方全体に広まった。
9:27 イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。
9:28 家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。
9:29 そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。
9:30 すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい。」と言われた。
9:31 ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。
9:32 この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれたおしが、みもとに連れて来られた。
9:33 悪霊が追い出されると、そのおしはものを言った。群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言った。
9:34 しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言った。
9:35 それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
9:36 また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
9:37 そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
9:38 だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
1.死人の生き返り 18−26節
18節 この会堂管理者の名前はヤイロという人でした(マルコ5:22)。
彼は娘が死んだので、生き返りを求めて、イエス様のところへ行きました。。何という信仰でしょうか。ヤイロと一緒にイエス様と弟子たちはその死んだ娘のところへ
行きます。
その途中で長血をわずらっている女性が、イエス様の着物のふさに触りました。
21節 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と心のうちで考え、信じていたわけです。それを行動に移しました。
イエス様は自分のうちから力が出ていくのを感じました。
マルコ5:30
イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と
言われた。
そして彼女に言います。
22節 「あなたの信仰があなたを直したのです。」
もちろん病を癒したのはイエス様でしたが、イエス様から癒しを引き出したのは彼女の信仰だったのです。イエス様の着物のふさに力があったわけではありません。
多くの人々が道を歩いている途中でイエス様の着物のふさにさわったことでしょう。しかし、イエス様を通しての奇跡を体験できたのは、彼女だけでした。
彼女が奇跡を体験できたのは、信仰を働かせた結果でした。
23−26節 会堂管理者の家に着き、イエス様は少女を生き返らせました。
この時代、死人の生き返りがアフリカで起こっているようです。長い間、イエス様と初代教会の時代に信じられ行われていたことが失われていましたが、ルターの
宗教改革(1517年)を皮切りにして、この500年間で様々なことが回復されて、現代(21世紀)に至っています。私たちは幸いな時代に生かされているといえる
のではないでしょうか。
2.盲人の癒し 27−34節
27−28節 二人の盲人が癒しをイエス様に求めました。
29節 イエス様は彼らに言われます。「あなたがたの信仰のとおりになれ。」
ここでも彼らの信仰がイエス様から癒しと力を引き出したのです。彼らは癒され、目が見えるようになったのです。
信仰は神に喜ばれます。
ヘブル人への手紙11:1、6
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、
信じなければならないのです。
逆に不信仰が働いているところでは、癒しと奇跡は起こりずらいのです。
13:57 こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
13:58 そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。
32−34節 悪霊につかれて口のきけない人が癒されました。
病がすべて悪霊からくるというのではありません。しかし、この人は悪霊のせいで病気になっていました。このようなケースは現代でもあります(原因は悪霊ですから
病院に行っても直りません)。悪霊のせいで病気になっていましたから、悪霊が追い出されると、病が直り、口がきけるようになりました。
3.収穫は多いが、働き手が少ない 35−38節
35節 ここでイエス様の働きがもう一度要約されています(4:23と同じ)。
イエス様の活動は大きく3つありました。@教え A宣教 B癒し
この3つのことは、キリストに従うクリスチャンと教会がなすべき、実践的使命であると言えます。
36節 人々が弱り果て倒れているのを見て、イエス様はかわいそうに思われた。
この地域の人々も様々なことで弱り果て倒れていることでしょう。私たちもイエス様の目を持ってこの地域を見るなら、そのように見えることでしょう。
イエス様が持っておられた心は、あわれみの心です。これが出発点です。
失われている魂に対して、病で苦しんでいる人々に対してのあわれみが働きの出発点になります。
37節 「収穫は多いが、働き手が少ない。」
農業(ミニトマト)もそのように言うことができます。収穫は結構多いです。でも働き手が少ない、働き手が少ないとせっかく実っても、収穫すべき時に収穫しないと、
熟しすぎて、腐ってしまう。または割れてしまう。下に落ちてしまう。これは人間の魂を収穫する時にも同じように言えます。
自分たちで勝手に聖書のみことばを変えて、「収穫は少ない。働き手はもっと少ない」としてはいけません。収穫は多いとイエス様は確かに言われます。
少ないのは働き人です。どうすれば良いのか。まずは私たちが働き人になることです。それでも少ないですね。ですからイエス様は言われました。
38節 「収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
農業において、実らせてくださるのは神様です。しかし実際に収穫するのは人間です。働き人です。
人の魂を救い収穫させてくださるのは、主イエス様です。人を救うのは神様です。しかし、実際に福音を語るのは、人間です。働き人です。
余市カナンの丘キリスト教会に働き人を送ってください、と祈りましょう。これがトップ事項の祈りの課題です。
働き人が多くいることによって、もらさずに人々を収穫することができるようになっていくのです。
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2014年11月16日(日)
説教題 「新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れよう」 <マタイの福音書9:1−17>
9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は
赦された。」と言われた。
9:3 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。
9:4 イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
9:5 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
9:7 すると、彼は起きて家に帰った。
9:8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。
9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
9:11 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
9:14 するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。
9:16 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。
9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」
1.罪を赦す権威を持つイエス 1−8節
1節 自分の町=カペナウム マタイ4:13 そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。
2節 並行記事のマルコの福音書によると中風の人を4人の人が運んできたことが分かります。
2:1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
2:2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。
2:3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
2:4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたまま
その床をつり降ろした。
人が大ぜいいてイエス様に近寄ることができなかったので、4人は家の屋根に穴をあけて、中風の人をつり降ろしました。
2節 彼らの信仰を見て、 彼らの信仰とは、イエス様のところへ行けば癒されると信じた信仰です。
私たちは彼らのように自分たちの信仰をイエス様に見せなければなりません。信仰は聞くことから得られますが、(ローマ10:17 そのように、信仰は聞くことから
始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。)、奇跡は神に信仰を見せることによって得られます。
イエス様は中風の人に「あなたの罪は赦された」と言われました。 罪を赦すことができるのは神様だけなので、3−4節で、律法学者たちは、イエスは神を
汚していると考えました。それは自分を神とする神を冒涜する罪であると考え憤りました。
5節 どちらがやさしいか。 本当は罪を赦す方が難しい。
しかし、実際的には罪の赦しを宣言する方が簡単で、病を癒す方が難しいのではないでしょうか。なぜなら、罪の赦しは言葉だけですむが、病の癒しは言葉だけではすまず、結果が伴わなければならないからです。
6節 イエス様が罪を赦す権威を持っていることを知らせるために、と言って病を癒やされました。
すなわち人の目には難しいとされる病を癒されることを通して、ご自身には罪を赦す権威があることを示されたのです(マタイ1:21)。
見える病の癒しのしるしを通して、見えないしるしである罪の赦しの権威がご自身にあることを実証されました。
教会の宣教は、罪の赦しを宣言することです。罪を赦すことができるのは神様だけですが、私たちは罪の赦しの福音を伝え、宣言することができます。
2.マタイの召し 9ー13節
9節 イエス様はこの福音書を書いたマタイに「わたしについて来なさい」 と言われました。
マタイは文字通りすべて(仕事を含めて)を捨ててイエス様に従いました。
マタイは自分の家を開放して宴会を開きました。それを見たパリサイ人たちはイエス様を裁きます(10−11節)。しかし、イエス様は言われました。
12節 医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
13節 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。
自分が魂と霊の領域において病人であり、自分が罪人であることに気づいている者が、癒しと救いに預かることができるのです。
この招きは神のあわれみによります(13節)。
自分の罪に気づくことは難しいと言えます。特に日本ではそうです。絶対者であり聖い神を意識することがないからです。そのような中で、罪に気づかせる伝道が
必要になってきます。最近三浦綾子さんの夫であった三浦光世さんが亡くなりましたが、私は三浦綾子文学というのはとても優れていると思います。
私は特に大学生の時に読みましたが、感銘を受け自分の内面を探られました。特に『氷点』において、人間は誰でも罪があることを、心の闇に光を当て、
明らかにしてくれます。それで終わらず、『続氷点』においては罪の赦しがテーマになっています。この三浦文学が日本で用いられることを更に祈りたいと思います。
興味がある方は教会図書にあるのでぜひお読みください。
3.新しいぶどう酒は新しい皮袋に 14−17節
ユダヤ教の教えにおいて断食は大切でした(マタイ6:16−18)。
ここではバプテスマのヨハネの弟子たちがイエス様と彼の弟子たちが断食をしていないことを疑問に思って、なぜ断食をしないのですかと質問します(14節)。
イエス様は答えられます。花婿が取り去られる時は断食します。すなわち弟子たち(花婿に付き添う友達)からイエス様(花婿)が取り去られる時には、深い悲しみから断食します。しかし、今は悲しむ時ではないので、断食しません、と。すべてに時があります(伝道者の書3:1−8)。
16−17節 キリストの福音は、ユダヤ教の古い因習のわくの中におさまりません。古いものと新しいものを組み合わせることはできません。もしそうするなら、着物や皮袋を引き破り、引き裂いてしまいます。キリストの福音には、新しい生活態度という新しい皮袋が必要です。
新しいぶどう酒、すなわち聖霊が注がれようとしています。聖霊が注がれています。私たちが古いままであるなら、古い皮袋であるままなら、注がれている聖霊は
流れ出てしまうでしょう。新しい皮袋にならなければ、新しい聖霊の働きが、流れ出てしまうのです。しかし、新しい皮袋として自分を整えておくと、聖霊の働きを
受け止めることができます。心の一新によって自分を変え、また教会を変えていただき、新しい皮袋として、今注がれている聖霊の働きを受け止めましょう。
またこれから注がれるリバイバルの聖霊を受け止めることができるように備えていきましょう。
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2014年11月9日(日)
説教題 「さあ、向こう岸へ渡ろう」 <マタイの福音書18:23−34>
8:23 イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。
8:24 すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
8:26 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
8:27 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
8:28 それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれも
その道を通れないほどであった。
8:29 すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに
来られたのですか。」
8:30 ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。
8:31 それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」
8:32 イエスは彼らに「行け。」と言われた。すると、彼らは出て行って豚にはいった。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、
水におぼれて死んだ。
8:33 飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。
8:34 すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。
弟子と時間を過ごすため、宣教の働きのために、イエス様は弟子たちに向こう岸へ行くように言います。
これは平行記事のマルコの福音書4:35を見ると分かります。
さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。
今日の説教題はここから取りました。
舟に乗って、向こう岸へ行こうとするのですが、途中で嵐がやってきて、舟が沈みそうになりました。その時のイエス様と弟子たちの反応は対照的でした。
1.安心して眠っておられたイエス 24節
伝道活動に疲れて眠ってしまっていました。ここに人間イエスを見ることができます。私たちと同じように疲れます。
しかそれ以上に、イエス様は自分が発した言葉が必ず実現することを信じていたので、眠ることができたのだと思います。自分が語った言葉が地に落ちることは
ないと知っていたのです。イエス様は自分の口で「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言ったので、必ず向こう岸へ着くことが分かっていました。ですから平安で安心して
眠ることができました。
2.心配している弟子たち 25節
信仰がうすく、信仰を働かせることができなかった弟子たちは不安でいっぱいでした。イエス様が語ったみことばを信じることができませんでした。
現代社会も、ストレスで眠ることができない人が多くいるようです。
26節 イエス様は嵐をしずめられました。イエス様は自然界を支配する権威を持っています。
27節 弟子たちは驚きました。マタイは体験した者として書いています。
私たちの人生という舟の中にイエス様はおられます。であるなら、人生の嵐はやみます。イエス様が静めてくださいます。また私たちの教会の中にイエス様は
おられます。であるなら、教会の働きを妨げ、前進することを妨げようとする嵐はやみます。
3.向こう岸でのみわざ(悪霊追い出し)
28節 向こう岸へ着くと、悪霊につかれた人が二人やって来ました。悪霊は目に見えませんが、実在する霊的存在です。イエス様は彼らから悪霊を追い出されました。
イエス様は自然界を支配されるお方ですが、霊的世界をも支配しておられます。
7−8年前のインド宣教旅行の証し(ある教会での集会で悪霊に10年間つかれた30代の女性がいました。親に連れて来られていたのです。賛美の途中で私は
通訳者とその教会に着きましたが、その女性が悪霊につかれているのは一目瞭然でした。激しく暴れ、男の声を出していました。彼女は賛美の間中、そのようでした。賛美が終わると、私は説教しました。私が説教を始めると、その女性はぐったりとして暴れるのをやめました。その説教を通して10名の方がイエス様は信じました。
ハレルヤ!主の御名を賛美致します。その後、病の方々のために癒しの祈りをしました。神様は驚くべき仕方で人々を癒してくださいました。
耳のよく聞こえない方が癒やされ、はっきりと聞こえるようになりました。本当に喜んでおられました。そのように祈りが必要な方々のために祈っていましたが、
その悪霊につかれた女性が起きたのでしょう、私の元に連れて来られました。また激しく暴れたので、4人くらいの人で押さえなければとても祈れるような状態では
ありませんでした。私はイエス・キリストの御名の権威を用いて悪霊と戦いました。「イエス・キリストの御名によって命じる。彼女から出て行け!」と祈り宣言しました。
15分〜20分くらい祈ったのではないでしょうか。激しい戦いの祈りでしたが、勝利しました! 彼女から悪霊が出て行きました。彼女の表情が劇的に変わりました。
そして女性の声でしゃべりました。私は彼女に質問しました。「誰があなたから悪霊を追い出してくれましたか?」 彼女は答えました。「イエス様です!」 ハレルヤ!
そうです、イエス様が彼女を悪霊の束縛から解放し、自由にしたのです。彼女は10年間も苦しめられていたのです。その彼女が解放されました。そして彼女はイエス様を自分の救い主として信じました。)
救い、癒やし、解放は余市でも起こります。
34節 しかし、人々は神のみわざを見たのに、失ったものに目が向いてしまいました。そして、イエス様に立ち去ることを求めました。非常に残念であり、人間の性質がよく表れていると思います。豚を失ったのを見た彼らは自分たちも経済的なものを失うことを恐れたのでしょう。
彼らはイエス様の到来によって失ったものに目がいったのです。私たちはイエス様の到来によって得たものに目を向けていきたいと思います。
嵐は来ます。でも大丈夫。舟(人生)の中にイエス様が共におられますから、私たちはストレスから解放されて平安の中に眠ることができます。安心して人生を
イエス様に明け渡すことができます。神様が用意しておられる向こう岸(新しい領域、新しい働き、新しいステージ)へ行きましょう。イエス様は、私たちに「さあ、
向こう岸へ共に渡ろう」と言って招いてくださっています。
これは冒険ですが、冒険を通して、神のみわざを見ることができるのです。いつまでもこちらの岸へいたのでは、もしかしたら安全?かもしれませんが、おそらく何も神のわざを体験することはないでしょう。それではせっかくのクリスチャン生活&教会生活、もったいないです。
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2014年11月2日(日) 聖餐式
説教題 「弟子への道」 <マタイの福音書8:18−22>
8:18 さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。
8:19 そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」
8:20 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
8:21 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
8:22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」
先週、私は法人総会出席のために埼玉へ行って来ました。法人総会で余市カナンの丘キリスト教会が正式に認められました。
私はサンライズ杉戸教会での礼拝説教奉仕のために、先週はこちらの礼拝に出席することができませんでしたが、DVD(余市カナンの丘キリスト教会の開所式を
録画したもの)礼拝はいかがだったでしょうか。きっと祝福され初心に戻ることができたことと思います。
さて先々週からイエス様の教えから、イエス様の働きに焦点が移りました。前回はイエス様の癒しのみわざを見ました。
今日は、イエス様の弟子になるとはどういうことかを見ていきます。
18節 イエス様の癒しの奇跡によって群衆はイエス様の周りにやって来ました。いつの時代も、病気は人間にとって現実的な苦しみであり、大きな問題です。
癒しは神の御心ですが、真理を求めずただ癒しだけを求めて集まる群衆に対してイエス様は距離を置こうとされました。私たちも癒しを強調しますが、
癒しが一番になってはいけません。救いが一番、罪の赦しが一番です。
イエス様は向こう岸へ行くことに決めました。群衆と距離を置くため、また働きの疲れを癒すため、新しい力を得て働きを継続するために、休息が必要だったのだと
思います。ここに人間イエスを見ることができます。また伝道の働きと休息のバランスの大切さを知ることができます。イエス様は弟子たちにもそのように勧めています。
マルコの福音書6:30−31
6:30 さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。
6:31 そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。
19−22節 向こう岸へ行く準備をしている間に、弟子になりたい、イエス様について行きたい、と言う2人の人物が登場します。彼らは結局、イエス様について
行きませんでした。応答したペテロたちとは違いました。
マタイ4:19−22
4:19 イエスは彼ら(ペテロとアンデレ)に言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
4:20 彼らはすぐに網を捨てて従った。
4:21 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのを
ご覧になり、ふたりをお呼びになった。
4:22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。
ここで、イエス様に従うことが、弟子となることが、どれだけの犠牲を払うかが語られます。
22節 機会を逃してはならない、ということです。人生においてイエス様に従っていくという機会、神からの召しを逃すと、後で人生の終わりに後悔することに
なるでしょう。イエス様に本気で従うという機会は私は、それほど人生において多くはないと思っています。なぜなら、一般的に言って、いったん落ち着くと人間は
冒険をしなくなる傾向があるからです。ですから、もし今、神の召しを感じ、イエス様について行くように語られているなら、ついて行くのは正しい判断であり、正しい
決断です。
イエス様は今すぐについて来なさい、と言われたのです。また言われるのです。献身を先延ばしにしてはいけません。なぜなら、次のチャンスがないことが多いからです。
おそらくこの2人は生涯イエス様と関係ある人生を送らなかったことでしょう。
ここでいう死人たちとは、霊的に死んでいる人たちのことです。イエスの召しを受けた者は、家族関係よりもイエス様との関係を優先させなければなりません。
イエス様はおっしゃいました。マタイ10:37−38
10:37
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者では
ありません。
10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
並行箇所のルカの福音書9:60には、「わたしについて来なさい」の代わりに、「あなたがたは出て行って、神の国を言い広めなさい」と書かれています。
神の国の福音宣教は緊急にしなければならないことであり、またそれは「あなた」にしかできない尊い特権であるので、霊的に死んでいる人でもできることは捨てて、
霊的に生きている人にしかできないことをしなさい、と言われているのです。
これは決して親不孝の勧めではありません。十戒にこのような教えがあります。 出エジプト記20:12
20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
しかし、長い目で見た時、イエス様について行き、イエス様に従うことが、家族の救いのために最も価値ある親孝行となることが多いのではないでしょうか。
※イエス様の弟子になるには、イエス様を第一にし、犠牲を払って、イエス様に絶対服従する必要があります。それがイエス様の弟子になる道です。
私たちの教会(余市カナンの丘キリスト教会)は弟子共同体になるというビジョンがあります。今年は礼拝共同体になるのが一番の目標でした。
これを継続しつつ、来年は弟子共同体になることを一番の目標にしたいと考えています。
イエス様は今日私たち一人ひとりに言われます。22節 「わたしについて来なさい。」
皆さんはどのように応答されるでしょうか。
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2014年10月19日(日)
説教題 「癒し主であるイエス・キリスト」 <マタイの福音書8:1−17>
8:1 イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。
8:2 すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」
8:3 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。
8:4 イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。
そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」
8:5 イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
8:6 言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」
8:7 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
8:8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。
そうすれば、私のしもべは直りますから。
8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と
言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような
信仰を見たことがありません。
8:11 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。
8:12 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
8:13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
8:14 それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。
8:15 イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみな
お直しになった。
8:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
山上の垂訓を通して、御国の民が、すなわちクリスチャンが、どのように生活し生きるべきかが教えられました。
今までイエス様の教えに焦点が当てられていましたが、これからはしばらくイエス様の働きに焦点が当てられます。
マタイ4:23でイエス様の働きが要約されていました。 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、
あらゆるわずらいを直された。
イエス様の働きは大きく分けると3つありました。それは、教えと伝道と癒しでした。山上の垂訓では教えがなされましたが、今日見る箇所では癒しがなされています。
三つの癒しを見ていきたいと思います。
@らい病人の癒し 1−4節
山上の説教を終えて、イエス様は山から降りました。するとツァラアトに冒された人(らい病人)がイエス様の所にやって来ました。
汚れているとされていたらい病人に冒されていたこの人に誰も触れてくれなかったことでしょう。多くの人々がこの人を避けていたわけです。深く傷つき、絶望的な
気持ちで生きていたことでしょう。
そのような彼にイエス様は手を伸ばして、彼に触り、「わたしの心だ。きよくなれ。」と癒しを宣言されました。このイエス様の祈りを通して、彼のらい病の病が
癒されました。と同時に触れられたことによって、彼の心も癒されたことでしょう。
現代のクリスチャンと教会も癒しの働きをすることが求められています。
イエス様によって、マルコの福音書16:18で 病人に手を置けば病人はいやされます。 と言われている通りです。
癒しの働きをする時に大事なことが二つあると思います。一つは、イエス様の心です。並行記事マルコ1:41−42
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」 すると、すぐに、ツァラアトが消えて、その人はきよくなった。
このあわれみの心がないと場合によっては、イエス様が山上の説教(7:22−23)のところで言ったように言われてしまう危険もあると思います。すなわち
パフォーマンス志向です。
次に大切なのは癒しの働きをする時に宣言の祈りをすることです。お願いをするのではなく、宣言をすることです。「癒されよ。健やかになりなさい。」と。
イエス様は、「きよくなるようにお願いします」とは祈りませんでした。「きよくなれ」と祈り、宣言したのです。
そして癒された彼に神に感謝を捧げ、祭司に見せるように言いました。
このことを通して彼は社会的にも復帰することができました。また祭司たちに対してイエス様が癒し主であり、イエス様に力があることを知らせる証しとなりました。
現代において、多くの病がありますが、キリスト教(聖書)の良い教えだけでは人々の実際的な救いにならないことが多くあります。私たち教会は癒しの働きをするようにと召されています。イエス・キリストは救い主であるだけでなく、癒し主であることを知らせる使命が与えられています。
A中風(神経が麻痺する病)の癒し(百人隊長のしもべ) 5−13節
古代ローマの軍隊は一軍団6千人でした。それが百人編成の60に分けられていました。百人隊長は、その百人構成の部隊の隊長です。
8節 「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」
この異邦人である百人隊長はイエス様の発する言葉に対して絶対的な信頼を持っていました。病に対してイエス・キリストは絶対的な権威を持っているという単純で
素朴な信仰がありました。日本には単純で素朴な信仰が欠けているのかもしれません。
9節 彼は権威に対する正しい理解を持っていました。自分の言葉にさえ権威があります。ましてあなた(イエス様)にはどれほどの権威があるでしょう。
イエス様には権威があるのです。イエス様の言葉には権威があるのです。
数週間前、車のスピード違反で警察につかまってしまいました。もし私の車を止めようとしたのが、ただの人だったら私は止まらなかったでしょう。しかし、止まらざるを得ませんでした。なぜなら、警察には国から権威が与えられているからです。権威とはそのようなものです。
イエス様はおっしゃいました。
マタイ28:18 「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子と
しなさい。、、、」
10節 「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」
彼の信仰はイエス様に喜ばれ、称賛されました。
ヘブル人への手紙11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
13節 「あなたの信じたとおりになるように。」 すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
このしもべの病を癒したのはイエス様です。しかし、その癒しを引き出したのは、百人隊長の信仰でした。
イエス様は、直接手を伸ばして触らなくても癒しがおできになることが分かります。
ここで学ぶべきことは、癒しを宣言する祈りも非常に大切ですが、みことばを宣言することも癒しには大切であるということです。そして何より信仰が大事になって
きます。疑いや不信仰があるところでイエス様はあまり働くことができません。
Bペテロのしゅうとめの癒し 14−17節
ここでの癒しは、らい病人同様、イエス様がさわられると癒されました。
16節 みことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々を癒しました。ここでもみことばの宣言です。
ですからこのイエス様の癒しの働きを通して、私たちが癒しの働きをするために大切な点をいくつか学ぶことができます。
・手を置くこと。
・癒しを宣言する祈りをすること
・みことばを用いること。癒しの祈りをしている時に与えられたみことばを用いることにおいて大胆になってください。
これは形になりますが、大切なことです。
そしてもっと大事なことは、姿勢の部分です。
・イエス様が病を癒す権威を持っていることを覚え(イエス・キリストが癒し主であることを確信し)、イエス様が持っておられたようなあわれみの心を持ち、
また信仰を持つこと。
癒しの働きを決して軽んじてはなりません。これはイエス様が非常に熱意をもってされた働きです。それはイエス様の弟子たちも同様でした。現代のイエス様の
弟子もそうであるべきだと私は確信しています。
17節 この病の癒しはイザヤの預言(53:4)の成就であるとマタイは記しています。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
癒しはあがない(救い)の重要な要素です。イエス様の贖い(福音)から病の癒しを取り除いてはいけません。病からの救い、解放が全くないという神の国を
想像することはできません。
今日はこれを強調します。病の癒し、病からの救いは、御国の福音の重要な要素、重要な一部です。罪からの救いよりは大切でないかもしれませんが、
癒やしが福音の大切な要素であることは間違いありません。
余市カナンの丘キリスト教会が、病で苦しんでおられる方々が癒され、解放され、自由にされるために、用いられることを願っています。
それは神のみこころであり、イエス様の心であり、聖霊様がなさりたいことであると確信しています。イエス・キリストは癒やし主です。
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2014年10月12日(日)
説教題 「人生の土台」 <マタイの福音書7:13−29>
7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
7:15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
7:16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
7:17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
7:19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、
あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
7:29 というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
山上の垂訓に戻ります。御国の民がどのように生活し生きるべきかが教えられてきましたが、今日の箇所はその続きであり、また結論であります。
@二つの道 13−14節
二つの道があります。一つは狭い道です。狭い門です。その門は小さく、その道は狭いです。それを見出す者はまれです。非常に少ないです。
行き着く先は、いのち、永遠のいのち、天国です。13−14節
もう一つの道は、広い道です。その門は大きく、その道は広いです。そこから入り、その道を歩む者が多いのです。行き着く先は滅びであり、死です。地獄です。
私たちの前に、二つの門があり、二つの道があります。申命記30:19
私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。
あなたはどちらを選びますか。イエス・キリストは言いました。
ヨハネ14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
イエス・キリストを信じる者だけが救われます。これが福音です。狭い門であり、狭い道です。多くの日本人が大きい門から入り、広い道を歩いて、滅びに向かって
います。願わくは私たちを通して、私たちの教会(余市カナンの丘キリスト教会)を通して、余市と近隣に住んでいる方々がイエス・キリストを信じることができますように。罪によって滅びに至る広い道を歩む方々が、方向転換して、イエス・キリストの十字架によって与えられる罪の赦しを受け取り、救いに至る狭い道を歩むことが
できますように。ハッピー・クリスマスが12月13日に持たれます。札幌からチームをお招きしてクリスマスの特別賛美、クラリネットの演奏、イエス様の降誕劇、
メッセージを伝えます。この集会が用いられるように今から祈って備えましょう。
A二つの実(二つの預言) 15−23節
21節 天におられる父のみこころを行なう者が御国に入る
22−23節 父のみこころを行なわない者は御国に入ることができない
B二つの土台 24−29節
岩の上に家(人生)を建てる人と砂の上に家(人生)を建てる人。
すなわち、これらの言葉(山上の垂訓で語られたイエス様の説教)を聞いて行なう者と、行なわない者。賢い人と愚かな人。
ヤコブの手紙1:22〜25
1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
1:23 みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
1:24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
1:25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。
こういう人は、その行ないによって祝福されます。
外見の家(人生)はそれほど変わらないように見えるかもしれない。しかし、その家(人生)の丈夫さの真価が問われる時がやってきます。
雨、洪水、風。三重で強調されているように、これは嵐であり、台風です。人生には試練がやってきます。人生には様々な迫害、困難、誘惑などの試練が
襲い掛かってきます。その時に何を土台にしていたかが問われ、また明らかにされます。
一方は岩の上に建てられていたので、激しく揺れたかもしれませんが、倒れませんでした(25節)。もう一方は激しく揺れ、揺れただけではなく、倒れてしまいました。
しかもそれはひどい倒れ方でした。(27節)。
パウロの言葉を見てみましょう。Tコリント3:10−15
3:10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
私たちの人生の土台はイエス・キリストです。
今日の箇所で注意すべき点、注目すべき点は、二つの門(二つの道)しかないといういうことです。一方は天国へ行く門、天国へ行く道、もう一方は地獄へ行く門、
地獄へ行く道。中間の道(他の道)はありません。すなわち、狭い門から入り、狭い道を進まないなら、それは自動的に滅びへ向かう大きな門、広い道を進んでいることになります。それは偽預言者の言葉に従っていることになります。偽預言者的な言葉は現代において、テレビ、本、雑誌、映画、インターネットで常に流れています。気をつけないと、すぐに流されてしまいます。私たちは真の預言、すなわちイエス・キリストの言葉、聖書の言葉に耳を傾けなければなりません。
聞くだけでなく、実行しなければなりません。神のみこころを行うことを通して何が起ころうと岩の上(イエス・キリスト)の上に建てられた揺るがない人生となって
いきます。聞くだけで実行しないと、砂の上に建てられた人生、イエス・キリストではなく結局は自分自身の上に、自分自身で建て上げた人生となります。
何もない時は良いのですが、大きな試練が来る時に、揺らされ倒れてしまうでしょう。
私たちの前に二つの道があり、二人の預言者がいます。そして二つの土台があります。私たちは死ではなく、いのちに至る(天国に至る)狭い道、真の預言者の
言葉(イエス・キリストの言葉)、そして岩の上(イエス・キリスト)の上に人生を築き上げる賢い人になりましょう。そうすれば、揺れることはあっては、倒れることは
ありません。
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2014年10月5日(日) 収穫感謝礼拝
説教題 「心の態度の重要性」 <マタイの福音書13:1−9、18−23>
13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。
13:2 すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。
13:3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
13:4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
13:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
13:6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」
13:18
ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
13:19 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
13:20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
13:21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
13:22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
13:23
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、
あるものは三十倍の実を結びます。」
今年の農場での収穫に感謝します。皆さんの働きに感謝。何よりも神様に感謝。そのような気持ちで今日の礼拝を捧げています。
心の態度は非常に大切です。人生は心の態度で決まると言っても過言ではないでしょう。
だいぶ前になりますが、アメリカのある靴の会社で営業の仕事をしていた2人の人がアフリカへ視察へ行きました。一人の人は会社に帰って来て皆に「アフリカ人は
靴を全く必要としていない。皆はだしで歩き、はだしで生活している。アフリカへの進出は絶対無理です。可能性が全くありませんからやめた方が良いです。」と
言いました。
もう一人の人はこのように報告しました。「アフリカにはすごい可能性があります。アフリカ人はほとんどの人が靴をはいていません。アフリカの人たちに私たちの
靴を売ることができます。ぜひアフリカへ進出しましょう。」
この2人は全く同じ光景を見ました。しかし、心の態度が違いました。
イエス様はたとえ話をされました。たとえ話とは、道徳的・霊的真理を日常の事柄によって説明する比喩的表現です。ここに4種類の土地が出てきますが、土地は
それぞれ人の心の態度を表しています。それぞれの土地(土壌)に同じ種を蒔きましたが、結果は全く違うものとなりました。同じように人が同じ真理の言葉を耳に
しても、その人の心の態度によって全く違った結果を人生にもたらします。
種を蒔く人、すなわち農民ですよね、農民が種を蒔きました。この当時のイスラエルでは雑な種蒔きがされていたようです。畑を歩きながら手でバッと種を投げる
わけです。それから鍬(くわ)を入れて土をかぶせました。
種はどこに落ちたでしょうか。イエス・キリストは4種類を挙げています。
1.4節 道ばたに落ちた種。 鳥が来て食べてしまった。
2.5節 土の薄い岩地に落ちた種。 根がないために枯れてしまった。
3.7節 いばらの中に落ちた種。 いばらが伸びてふさいでしまった。
4.8節 良い地に落ちた種。 豊かな実を結んだ。
9節 耳のある者は聞きなさい。皆さん、聞いていますか?
10節〜17節は飛ばしましたが、この話を群衆とイエス様の弟子が聞いていたわけですが、弟子たちがやって来て、このたとえの意味を教えてください、と言うわけです。そしてイエス・キリストはこのたとえの解説を弟子たちにされます。それが18節〜23節です。
解説を見ましょう。種は御国の言葉(イエス・キリストの言葉・聖書の言葉)のことを指しています。そしてそれぞれの土地(土壌)は人間の心の状態を指しています。
19節 道ばたに蒔かれた種は、鳥に食べられてしまいます。道ばたとは踏み固められてしまった、かたくなな心のことです。ガチガチなわけです。第二農場にも
そのような場所があります。堅くて大変。そのような心の状態では、せっかく種(聖書の言葉)が蒔かれても、悪い者(悪魔)に奪われてしまいます。トラクターで耕して
いると、むき出しになったものを食べにカラスや小鳥が来るんですよね。
道ばたに蒔かれた種は、先入観や偏見に捕らわれてしまっていたり、「常識」という枠に縛られて、新しい考え方、新しい発見ができなくなってしまっている人の心の状態です。このような心からは、新しいものは何一つ生まれてきません。
コロンブスは「水平線の向こうは滝のようになっていて遠くへ行くのは危ない」という当時の常識を無視して航海に乗り出し、アメリカ大陸を発見しました。あなたの心は、新しいものに対して常に開かれているでしょうか。
20−21節 岩地に蒔かれた種は、土が深くなかったので、すぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまいました。
これは、聖書の言葉、また新しいことに心は開かれているのですが、あきらめの早い人で、すぐに物事を投げ出してしまう人の心の状態です。熱しやすく冷めやすい。熱く燃えるのも早いが、冷めるのも早い。新しいものにすぐに飛びつくのですが、忍耐力がないために長続きしません。困難や迫害、試練に弱く、すぐにつまずいてしまいます。その結果、何も得ることができません。
アメリカのゴールドラッシュの時代にダービーという青年が、全財産をはたいて鉱山を買い一山当てようと採掘(さいくつ)を始めました。しかし、掘っても掘っても
何も出てきません。彼は、その鉱山を二束三文で他人に売り払ってしまいました。買った人は物は試しと掘ってみると、何と1メートル下に金の大鉱脈を発見した
のです。ダービー青年の問題は、あきらめるのが早すぎたということです。
22節 いばらに中に蒔かれた種は、いばらが伸びてふさがれてしまいました。聖書の言葉を聞き、新しいことに心が開かれているのですが、この世の心づかいや
色々な欲望、富の惑わしにふさがれてしまって、実を結ぶことができません。二心(神の国とこの世の両方に属そうとしている)、心が集中していない、神と金(発音は似ているが全然違うものの間)で揺れている、これは、優先順位が確立されていない人の心の状態です。
アメリカのベツレヘム・スチールという会社が倒産しそうになった時、再建を任されたのは、経営コンサルタントのリーという人物でした。彼は会社員に四つのことを
徹底的に実行させ見事に危機を脱しました。その四つのこととは、
1.前の日に明日することを6つ書き出す
2.それに優先順位をつける
3.その日、会社に行ったら、その紙を机の上に貼る
4.すぐに優先順位に従って実行する
社員たちが会社において優先順位の高いことに心を集中させたことで、会社は建て直されていきました。
23節 最後は良い地に蒔かれた種で、育って豊かな実を結び、三十倍、六十倍、百倍になります。
これは、神の言葉や人のアドバイス、新しい情報を素直に受け入れ、賢く適応し、実行できる心の状態です。本物の信仰を持つ心、よく耕された柔軟でやわらかい
心の態度です。良い地=まさにここは余市。余市全体が、良い地(土壌)になることを願います、余市に住んでいる人々の心の状態が、よく耕され福音に対して
(聖書のメッセージに対して)柔軟になり良い地(良い心の態度)になることを願います。
イギリスの名宰相(さいしょう)として名高いグラッドストンは、首相にと乞われた時、一つの条件が満たされれば引き受けても良いと言いました。その一つの条件とは「どんなに忙しくても、日曜日に教会の礼拝を守ること」でした。彼の英国史上、稀に見る政治的実績の数々は、神から来る知恵や力を源泉としていたのです。
私たちの心の状態、心の態度はどのようなものでしょうか。願わくは、クリスチャンでもクリスチャンでなくても、よく耕された、柔らかい、柔軟な心で、新しいこと、また特に聖書の言葉に、イエス・キリストの言葉に応答できる者でありたいと願います。
人生において様々なことが起こりますが、それを変えることはできませんし、コントロールすることもできません。しかし、唯一自分で変えられコントールできるのは、
自分自身の心です。
箴言4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。
今日は収穫感謝礼拝です。収穫できたことを神様に感謝します。神とは人間が作り出した神々のことではなく、神は霊ですから見えませんが、自然界を支配され
私たち人間を創造された神のことです。
今日の献金は、インドの貧しい人々の間で働いている「NGO 一杯の水」(札幌の教会で牧師をしている大東先生の働き、ミニストリー)に捧げたいと思います。
私は「一杯の水」の働きで、一度先生の通訳の奉仕でスリランカへ行ったことがあります。先生が日本語で説教し、私がそれを英語に訳し、現地の人が更にスリランカの言葉に通訳しました。
インドではいまだにカースト制度があり一番下の階級はダリットと言われ、インドでは家畜以下として扱われているようです。特にそのような人々の間で大東先生は
聖書の言葉を伝え、また実際的に支援しています。その働きに今日の献金を捧げます。もちろん自由献金ですので、しなくても構いません。
実は私も一度7−8年前にインド人牧師(アブラハム牧師と言いますが)からインドへ招かれて聖書の言葉を伝えるために行ったことがあります。10日間の滞在でしたが、驚くなかれ、毎食カレーでした。私はインドで10日間の滞在で30食カレーを食べました。日本に帰って来てから一年間カレーを食べることができませんでした
(見ることも、においをかぐことも嫌になってしまいました。カレーは好きなので今は美味しく食べています)。
孤児院にも行って聖書の話しをする機会がありました。何を話そうかと迷いましたが、イエス・キリストによる希望を伝えました。世界には本当に貧しく、大変な状況に置かれている人たちがたくさんいます。その日の食、食べるものさえない人たちがいます。私たちはそのような人たちを助ける働きを少しでもしたいと願っています。
食べられるのは当たり前ではありません。収穫を感謝し、衣食住が与えられていることを感謝し、今生かされていることを感謝しましょう。
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2014年9月28日(日)
説教題 「人生のゴールデンルール」 <マタイの福音書7:1−12>
7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。
7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
7:5 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
7:12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。
御国の民がどのようにするべきかの教えが続きます。
@さばいてはいけない 1−6節
1節 さばいてはいけません。さばかれないためです。
リビングバイブルでは、人のあら捜しはいけません、と訳されています。他人の欠点や失敗をことさらにさがしだすことはやめなさい、ということです。
できれば人の欠点には目をつぶり、人の良い点を見つけ出す者でありたいと思います。
3−5節 人を裁く前に自分を裁きなさい。
主の祈りでも、悔い改めが最初に来て、赦しが続いています。
A求めなさい。 7−11節
再び祈りについて語られます。最初の時は、隠れた所で祈ることによって、隠れた神様から報いが得られると教えられました。ここでは、主は、祈りに関する聖書の
中心的な教え、すなわち、祈りは聞かれ、祈りは答えられるということを教えておられます。
求めなさい、捜しなさい、たたきなさい、と三重に語っておられるのは、私たちが疑い深く、神様をいかに信頼しようとしないか、宗教的な祈りで満足してしまうかを
ご存知だからだと思います。
祈りには二つの部分があります。人間の部分と神の部分です。人間の責任は求めること、神様の責任は与えることです。
イエス様が教えておられるのは、答えを期待しないで祈ってはいけない、答えを得ないで安心してはいけない、ということです。子供のように求めて良いということです。
実はそのような祈りを父なる神様は、神の子供である私たちに望んでいます。すなわち、父なる神様は、神の子供たちとの交わりを求め、その願いに耳を傾け、それをかなえようとしておられます。
「天にいます私たちの父よ」と呼びかけ祈り始める時に、神の子供としての自覚を持つことがいかに大切であり、重要であり、決定的であるかが教えられます。
マタイ6:30に書かれていました。 鳥や花でさえ神様は養ってくださるのだから、まして神の子であるあなたがたを養い、よくしてくださいます。
11節 人間の父親でさえ自分の子供にはよくするのだから、まして天の父なる神様は神の子供たちによくしてくださいます。
B結論 12節
何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。
これはゴールデンルール(黄金律)と呼ばれます。
これが律法であり預言者です。これが旧約聖書全体の教えです。これがキリスト教倫理の要約です。これが御国の民にイエス様が教えられた根本的な行動原理です。
キリスト教倫理の最高峰は、マタイ5:44の
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 だと思います。
このゴールデンルールを実行するのは非常に難しいと思います。ですからゴールデンルールの前にシルバールールと呼ばれるものを実行することをお薦めしたいと
思います。それができるようになったら、ゴールデンルールに挑戦したら良いのではないでしょうか。
シルバー(銀)ルールとは、「自分にしてもらいたくないことは、他の人にもしてはならない」というルールです。こちらの方がやさしいのではないでしょうか。
このシルバールールは他人と必要以上に関わらないことによってできます。一方、ゴールデンルールとは、「自分にしてもらいたいことは、他の人にもしなさい」というルールですから、他人に積極的に働きかける必要があります。聖書学者のバークレーという人は、「ゴールデンルールによって行動する。それは、自分の『我』が
弱まり、砕かれた時に初めてできる。」と言っています。
一日一善と言われますが、「一日に一つの良いことをしよう」と決めて実行したらどうでしょうか。
最後にまとめます。
<まとめ&適用>
・裁かない
・求める
・行動の基準として、自分にしてもらいたいように、他の人にもそのようにする。
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2014年9月21日(日)
説教題 「心配してはいけない」 <マタイの福音書6:19−34>
6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
6:22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、
6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。
6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも
仕え、また富にも仕えるということはできません。
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと
心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけが
ありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知って
おられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
律法学者とパリサイ人にまさる義、すなわち福音的な義に生きるとはどういうことかの教えが続けられます。
@富に対する教え 19−24節
自分の宝を地上に蓄えるのをやめ、自分の宝を天に蓄えなさい。
これが御国に生きる民、すなわちクリスチャンの人生に対する指針として与えられます。
24節 神にも富にも両方に仕えることはできない。
パウロも書いています。Tテモテ6:9−10
6:7 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
6:8 衣食があれば、それで満足すべきです。
6:9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。
<例話>
あるクリスチャンが天国へ行き、天使によって、天での自分の家に案内された。ペテロやパウロの家、素晴らしい家が続きます。自分にもここまでではないとしても、
このような家が与えられるのか、と嬉しい気持ちになります。しかし、そのような家々を通り過ぎ、段々と家のレベルが落ちて、みすぼらしい家が続くようになります。
そしてついに到着します。なんと一軒のひどい家に連れて来られました。天使が言います。「あなたの家に着きました。地上から送られてきた資材を使って最大限に作ったのですが、これがせいいっぱいでした。ここで暮らしてください。」
まず教会に捧げることによって神に捧げます。神の働きに参加し助けることによって、天に宝を積みます。
貧しい人々のために捧げる ことによっても天に宝を積むことになります。
A25−32節 富に対する態度(思い煩いについての教え)
25節 心配してはいけません。心配=心がいろいろなものに裂かれて乱れること。
これは将来の備えを否定するものではありません。神への信頼を否定するような思い煩いをやめなさい、ということです。心配と信頼は同居することができないから
です。
27節 心配しすぎるとかえって自分のいのちを短くしてしまうのではないでしょうか。
30節 鳥や花を見なさい。神はよくしてくださいます。それが分からないのですか、信じないのですか。心配は信仰が薄いことを表します。心配は信仰不足と
言えます。
神様はよくしてくださるので、心配せずに神様を信頼していきましょう。神を信頼することによって、心配が打破されていきます。打ち破られていきます。
31節、32節 生活のことで心配するのはやめさない。
神様はそれらが私たちに必要であることを知っておられます。
異邦人のようであってはいけません。日本人のようであってはいけません。御国人のようでありましょう。それは心配ではなく、信頼が特徴です。
主の祈りでそのことを学びました。マタイ6:7−9
6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
B33−34節 結論
ここでも、だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい、と続きます。まず第一にというのは、何にもまさって、最も大事なものとして、という意味です。
聖書の中で最も大切な命令の一つと言えると思います。
そうすれば、それに加えて、これらのもの(衣食・生活に必要なもの、あなたがたの必要なもの)はすべて与えられます、と約束してくださっています。
34節 だから、神の国と神の義を求めることによって、生活に必要なものはすべて神が備え、与えられるのだから、あすのための心配は無用です、今を、今日を
生きなさい、とイエス様は言われます。
思い煩いから解放される道は、神を信じて、明日起こるであろうすべてのことを神にゆだねることです。私たちのことを顧みてくださる父なる神がおられるので、
心配しない、というのが信仰者の生き方です。
思い煩いから解放されるためには、自分自身の身の回り(環境)ではなく、神ご自身に目を向けることが大切です。問題に目を向けると、その問題から抜け出す
ことができなくなってしまい、問題に囚われてしまいます。そうではなく、問題を支配している神様に目を向ける時に、私たちは解放され自由にされ、神からの平安を
得ることができます。
「御国が来ますように」と神の主権を祈りますが、大切なことは、すべてが神のご支配の中にあると信じ、私たちによくしてくださる、またすべてを益に変えてくださる
神を信頼することです。
労苦はその日その日に、十分あります。 一日一日の自分の責任を果たして生きることは、明日の将来の心配を取り除きます。心配しすぎると、思い煩いに
よって悩まされ、苦しむことによって一日を費やし、今日という神様に与えられている貴重な一日を無駄にしてしまうことになります。心配ではなく、神様を信頼して、
与えられている今日一日を一生懸命に生きましょう。神様の御心がなりますから、神様のご計画が行われますから、明日のことは、将来のことは、神様にゆだね、
まかせていきましょう。
最後にまとめます。
<まとめ&適用> 天に宝を積む歩みをしていきましょう。自分にとって何をすることが天に宝を積むことになるかを考えてみましょう。
必要以上にお金や生活のことに心配し思い煩わないようにしましょう。そのために神の国を第一にしていきましょう。そうすれば神様が私たちの必要を満たして
くださいます。神様を信頼し、明日と将来のことは神様にゆだねて、与えられている今日を(今を)最善を尽くして歩んでいきましょう。その中で御心の道が開かれて
いきます。
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2014年9月14日(日) 教会総会
説教題 「主が教えてくださった祈り」 <マタイの福音書6:7−15>
6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
6:14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
先週、善行を行う時の正しい動機を見ました。施し、祈り、断食について。人に見せるためではなく、隠れてされる善行が、隠れている神から報いを受けることが
できるとイエス様は教えられました。
祈りについては、更に教えがされています。今日は主が教えてくださった祈り、主の祈りについて見ていきたいと思います。
まず間違った祈りを指摘し(7節)、それから正しい祈り(どのように祈るべきか)を教えられます。間違った祈りは、同じ言葉をただ機械的に繰り返すような祈りです。これは異邦人のような祈りで、ちょうどお経のようであると言えます。正しい祈りは、神は自分の父で、自分を個人的に親しく知っておられ、自分に必要なものすべてを知っておられると確信して、お経のようではなく、意味の
分かる、意味のある祈りです。
9節から具体的にどのように祈るべきかを教えられます。
9節 だから、 父なる神様は、あなたの必要を知っておられるから、だから心配せずに、このように祈りなさい、と教えられました。
主の祈りは、呼びかけ、神についての(神の必要を祈る)三つの祈り、人間の必要を訴える三つの祈りで構成されています。これは祈りのアウトラインを示しています。
今日はこれを説教のアウトラインにします。
@呼びかけ 9節
天にいます私たちの父よ。
この呼びかけは、「神は私たちの父、私たちは神の子」という、愛と信頼の信仰告白です。この呼びかけを通して、祈る時に、祈る前に、神様と私たちの関係が形式的なものではなく、生き生きと
した関係であることを確認することができます。そうすれば、自然と祈りも生き生きとしたものになっていくはずです。またこの呼びかけが、私の父ではなく、私たちの父となっていることに注目したいと思います。一人の弟子の父なる神ではなく、弟子たちの父なる神であることをイエス様は強調されています。もちろん神様は私(一人の弟子)のお父さんなのですが、それにもまして私たちの
お父さんなのです。すなわち、神様は共同体のお父さん、教会の父なる神様なのです。主の祈りは教会共同体の祈りです。私たちの祈りです。だから、今現在、私たちは毎週皆で主の祈りを
祈っています。この祈りを通して、私たちは神の子供たちとして、教会共同体として、父なる神様に祈りを捧げています。
祈りは基本的に、イエス様の御名を通して、聖霊様の助けによって、父なる神様に祈ります。これが正しい祈りです。
A神に対する祈り 9−10節
・御名があがめられますように。 御名=神ご自身
残念ながらこの時代において、日本において、神様の御名(神様のお名前)が汚されています。ですから私を通して御名があがめられますように、と祈ります。
余市カナンの丘キリスト教会を通して御名があがめられますように。神が神としてあがめられ、ほめたたえられますように。
・御国が来ますように。 御国=神の支配
神様が自分を、自分の心を、自分の生活を、自分の人生を、神の主権をもってご支配し、治めてくださいますように、と祈ります。余市カナンの丘キリスト教会を
あなたが治めてくださいますように。
この地域を支配しているサタンの王国が打ち砕かれ、神様がご支配して治めてください。あなたが介入してください。=霊的戦いの祈り
2000年前のイエス様の到来を持って御国が来ました。完全な御国はイエス様の再臨によって来ます。今はその中間にいます。
御国が来ました。教会に御国が来ますように。リバイバルが来ますように。福音の力によって、聖霊の力によって、御国が前進し、拡大しますように。これが教会の
使命です。
・みころろが行われますように。
私の人生にあなたが持っているみこころ、ご計画が行われますように。余市カナンの丘キリスト教会に持っているみこころが行われますように。来年2015年に
教会に対する神のみこころが今日の教会総会を通して示されますように。
イエス様のゲツセマネでの祈りに模範を見ることができます。
マルコ14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの
願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
B人間の必要を訴える祈り 11−15節
御国を待ち望む者たちの日常生活に関わる問題を扱っています。
・わたしたちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
神様は人間の(私たちの)心だけでなく、肉体(身体)の必要にも配慮してくださるお方です。天からのマナをもって日ごとにイスラエルの民を養った神様は、
私たち一人ひとりをも日ごとに養ってくださいます。神様の必要を祈った後、私たちは自分たちの必要を祈ることができます。神様は、私たちの仕事を祝福し、
家庭の経済を祝福し、教会の経済を祝福してくださいます。2015年の余市カナンの丘キリスト教会の予算を導き、教会の財政を祝福し、財政不足で神の働きが
停滞することがないように守ってください、と祈ります。
・悔い改め&赦し
悔い改めと赦しを通して、心に平安が与えられます。私たちは憎しみから解放される必要があります。憎しみがあると、心が病みます→体も病んでいきます。
赦しました、と過去形で書かれています。ここに注意すべきです。赦せるように助けてください、と祈るようにとは言われていません。赦しました、と祈るように
教えられているのです。赦せるような感情を待ち望んでいてもおそらく一生赦すことはできないでしょう。それは心と身体に病をもたらす大きな原因になります。
まず意志を働かせて、赦しました、と祈るのです。そうすると、感情が後からついてきます。なぜなら神様が助けてくださるからです。
悔い改めと赦しを通して、心と体に健康が与えられます。それが神の私たちに対する御心です。
補足として14節、15節があります。赦しがとても大切であることが強調されています。
・試みに会わせないで、悪からお救いください。
この世界は悪で満ちています。多くの誘惑があります。サタンの攻撃があります。霊的戦いをしていますから、私たちと教会が守られるように祈ります。
すべての悪から守られるように祈ります。
・国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。
すべての栄光を主に帰して祈りを終えます。
<まとめ> 主の祈りはイエス様が教えてくださった模範的な祈りです。非常に価値がある教えです。この祈りが隠れた祈りとして祈られる時に、隠れた所で
見ておられる父なる神様が報いを与えてくださいます。
<適用> まずは、主の祈りを毎日そのまま祈ることから始めましょう。
自分の今の状況にあてはめて主の祈りを祈っていけば祈りが深みへといくことができるでしょう。
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2014年9月7日(日) 聖餐式
説教題 「隠れた所で見て報いてくださる神様」 <マタイの福音書6:1−6、16−18>
6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、
あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。
まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で
見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。
まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:17 しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
6:18 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられる
あなたの父が報いてくださいます。
律法学者やパリサイ人にまさる義とはどのような義かを教えたイエス様は、その新しい義を実行する者の正しい態度について語られます。
律法ではこのように言われているのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います、と律法の義と福音的な義を対比させて語られたわけ
ですが、ここでも間違った態度(動機)と対比させて正しい態度について語っておられます。
パリサイ人の偽善の行いとキリスト者の真の善の行いを対比させ、比較しているわけです。
1節 序論になっています。人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられ
ません。
人の評価と神の評価が対比されています。人から評価されるために善行をするなら、神から評価はされません。
2節から具体的な善行について教えがされます。イエス様はユダヤ人の宗教生活の3つの大きな柱であった、施し、祈り、断食を取り上げます。
この3つはキリスト者生活においてもとても大切な柱になります。
@施し 2−4節
2節 動機が問われています。人にほめられたくて施しをするなら、それは間違っています。人に見せるため、人に評価されるため、会堂や通り、すなわち目立つ所で、なおそこでラッパを吹いて人の目を引きつけて施しをするなら、その動機は間違っている、とイエス様は言われました。それではすでに自分の報いを受け取ってしまっています。「あの人はすごい、あんなにも貧しい人たちに施しをしている、献金をしている」と人々から賞賛されることによって報いを受けてしまいます。
そのようにではなく、真の善行(施し)とは、人に見せるためではなく、ただ天におられる父なる神に見られるように隠れて行なうべきであるとイエス様は教えられました(3節)。
人に見られていない所で何をしているかが大事です。それがその人の真の姿です。施しをする動機が、あわれみと慈しみであるべきです。
人のほまれを受けることは、神の報いを無にしてしまいます。しかし、施しが隠れてされるなら、誰にも知られないでされるなら、その隠れた施しは神様に評価される
ものになります(4節)。
4節 そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父(なる神)が、あなたに報いてくださいます。
A祈り 5−6節
5節 偽善者の祈り 人に見られたくて祈る。「あの人はよく祈る、祈りの器だ」と他人から評価される。→すでに自分の報いを受け取っている。
人の称賛を受けようとする祈りは、神様に聞かれる余地が残されません。すなわち神からの報いが受けられません。
6節 真の善の祈り 自分の奥まった部屋に入り、隠れた所におられる父なる神に祈る。隠れた祈り。→そうすれば、隠れた所で見ておられる父なる神が、報いて
くださる。
B断食 16−18節
16節 偽善者の断食 人に知らせ見せるために断食をする。顔をやつし、自分が断食をしていることを示す。「とても私にはできません、あなたはすごいですね、
あなたは神の器ですね」と他人から評価される。→すでに自分の報いを受け取っている。
17−18節 人に知られず、人に見られないで、隠れた所におられる父なる神に知られ、見られるように断食をする。→そうすれば、隠れた所で見ておられる
父なる神が報いてくださる。
<まとめ>
注意すべきことですがイエス様は、施しをする時には、祈る時には、断食をする時には、と語られていることによってこれらの善行をすることは当然のこととして
います。問われているのは動機です。人に見られ、人にほめられ、人に評価されるための、善行、祈り、断食であるなら、すでに人にほめられることによって報いを
受け取ってしまいます。それでは神からの報いを受け取る余地が残されなくなってしまいます。
しかし、隠れた所でされる、良い動機からの施し、祈り、断食であるなら、人に見られず、人にほめられず、人に評価されないので、神からの報いを受け取る余地が
残ります。実際、イエス様は、そのような隠された(隠れた)施し、祈り、断食は、神から報いが受けられます、と約束されました。隠れている神様。神様は隠れています。そして隠れた善行に対して報いてくださいます。
<適用>
今のあなたにとって、施し、祈り、断食、どれが一番するべき善行でしょうか。神様に聞いてみてください。そして隠れた神様にしてみてください。そうすれば、神様
ご自身から報いが受けられるでしょう。
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2014年8月31日(日)
説教題 「キリスト教倫理の真髄」 <マタイの福音書5:21−48>
5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と
言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
5:23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
5:24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
5:25 あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。
5:26 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。
5:27 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、
よいからです。
5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
5:31 また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。
5:32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。
5:33 さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
5:35 地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
5:36 あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。
5:37 だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
5:38 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。
5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を
降らせてくださるからです。
5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
パリサイ人と律法学者にまさる義とはどのような義か。具体的に新しい義の基準とは何かが教えられます。
@殺人、姦淫、離婚、誓い
21節 「人を殺してはならない。」 出エジプト20:13 十戒の六番目。
22節 腹を立てる、「能なし、ばか者」と言うだけで、罪になる。それは殺人罪と同罪で、ゲヘナつまり地獄へ行くのに価する、と言われました。
何と厳しい基準でしょうか。
律法は外に現れた罪だけしか扱えません。しかし、神の前では、心や態度、言葉の怒りも罪(犯罪)となり、有罪になります。
23−26節 実際的な適用
礼拝の前に、仲直りすること、仲良くなること、和解することが勧められています。神との和解がないなら、燃えるゲヘナつまり地獄に投げ込まれてしまいます。
27節 「姦淫してはならない。」 出エジプト20:14 十戒の7番目。
28節 ここでも殺人同様、実際に姦淫を犯すという外側の問題ではなく、心の中の問題を扱っています。すなわち情欲の問題です。行為に先立つ動機や態度が
すでに罪であることを示されました。
29−30節 目と手があなたをつまずかせるなら、目をえぐり出して、捨ててしまいなさい。手を切って、捨ててしまいなさい。そうでないと、燃えるゲヘナつまり地獄に
投げ込まれてしまう、情欲は実際の姦淫に価すると言われました。オリゲネスという教父は実際に目と手を切って捨てたようです。
イエス様は、殺人同様、姦淫にも非常に高い基準を設けられました。これでは誰が救われるだろうか、と思ってしまいます。そうです、律法を守ることによっては誰も救われることはできないのです。だれもが神の前で有罪なのです。
31節 「だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ」
申命記24:1−3からの引用です。
24:1 人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を
家から去らせなければならない。
24:2 女がその家を出て、行って、ほかの人の妻となったなら、
24:3 次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、
32節 だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです、と言われました。
33節 「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ」
申命記23:21−23からの引用。
23:21
あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからで
ある。
23:22 もし誓願をやめるなら、罪にはならない。
23:23 あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行なわなければならない。
34−37節 誓ってはいけないと言われました。天をさして、地をさして、エルサレムをさして、あなたの頭をさして誓ってはいけない、「はい」は「はい」、「いいえ」は
「いいえ」とだけ言いなさい、と教えられました。
A善
38節 「目には目で、歯には歯で」
出エジプト21:23−25からの引用。
21:23 しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。
21:24 目には目。歯には歯。手には手。足には足。
21:25 やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。
昨年、「倍返しだ」、という言葉がはやりました。これは正直見ていてスッキリするのですが、イエス様は違う教えをされました。
39節 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
打撃を受け止めて、相手に返さないことによって、本来往復する憎悪と敵対を片道で止める心を持つことを教えられました。
これはキリスト教倫理の真髄です。自我を捨て、善によって報復を断ち切る力強い生き方です。やり返さない、倍返しをしない、赦す、ということを選択する生き方です。イエス様は福音の寛大さによって律法を成就することを勧めています。
パウロもそのことを勧めています。 ローマ人への手紙12:17−21
12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。
12:18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
悪に負けてはいけない、かえって善をもって悪に打ち勝つ、という生き方です。このような生き方ができたら本当に幸いです。
硫酸をかけられた女性の証し。驚くべき赦しの証し。
40節 自分の権利を考えない。
41節 1ミリオン=1480メートル → 2ミリオン=2960メートル 強いられた心ではなく、自由で自発的な心でする。
42節 相手の最も必要としているものを与える。
社会正義に反する場合は別で、例外はあります。イエス様の例を見ておきます。
18:22 イエスがこう言われたとき、そばに立っていた役人のひとりが、「大祭司にそのような答え方をするのか。」と言って、平手でイエスを打った。
18:23 イエスは彼に答えられた。「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」
B愛 43−48節
43節 「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」
44節 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
46−47節 隣人を愛し、敵を憎むなら、あなたがたも同じではないか。
48節 完全でありなさい。 45節のように、天の父なる神は誰をも差別しないように、あなたがたも天の父なる神の子供として、差別をしないで、すべての人を
愛しなさい、とイエス様は勧めています。
<まとめ>
イエス様が提示した義は倫理的、道徳的レベルの高いものです。この世の基準で考えたら、実践できないでしょう。イエス様は十字架の道を歩むことを通して
自らの教えを実践されました。私たちもその道に歩むことが期待されています。私たちはおそらくできないでしょう。でもその時に福音によりすがることができます。
この世の人々は、パリサイ人や律法学者のように基準の低いものによって自分は守っていると自分の義を主張します。それでは自分の罪に気づくことはできません。パリサイ人と律法学者にまさる義、すなわち神を信頼し神を信じる、イエス・キリストを信じる信仰による神の義に到達することはできないでしょう。
私たちは実践しようとする中で、できない自分と格闘する中で、神の基準に達しない自分と格闘する中で、神を信頼し、信仰による義に到達することができるのです。しかし、最初からできないとあきらめないで、聖霊さまの助けによってイエス様の教えを実践することが期待されています。
<適用>
特に自分の心に語られた一つの教えを実践していくように心がけ一週間を過ごしましょう。
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2014年8月24日(日)
説教題 「弟子の生き方」 <マタイの福音書5:13−20>
5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。
しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
5:20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、
はいれません。
5:1−12では、8つの幸い(祝福)を見ましたが、今日は責任について見たいと思います。
@あなたがたは、地の塩です。 13節
10節〜12節で迫害について教えられた後に、続いて「あなたがたは、地の塩です」とイエス様は言われました。迫害されても、悲しむのではなく、喜びなさい。
そして逃げるのではなく、「地の塩」として生きなさいと言われたのです。
塩の役割。一つは防腐剤の役割があります。食べ物が腐るのを防ぎます。
同じように、この世を腐敗から守り防ぐ役割と責任が私たちにはあります。それがイエス様の弟子としての責任です。御国の市民はこの世の市民とは異なって
います。異なっていることに存在価値があります。この世と異なっていなければ、この世と何も変わらなければ、何の役にも立ちません。塩のもう一つの役割は、
調味料としての役割です。食べ物に味付けをします。
同じような役割が私たちに期待されています。 コロサイ4:5−6
4:5 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。
4:6 あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。
無味乾燥な味のないことばではなく、適度に味付けされたことばを語ることが期待されています。塩をかけすぎると、料理が台無しになります。同様に、あまり塩を
かけすぎると、人々の心に逆に届かなくなります。福音に関して言えば、押し付けがましいものになってしまうでしょう。
日本の料理が優れているのは、調味料のおかげだと私は思っています。料理を作る時に味付けに気を付けるように、福音を語る時にも気を付ければ、食べる人に、聞く人に喜んでもらえるでしょう。その人に何かが伝わるでしょう。塩は(私たちは、教会は)、他者のために存在します。他者のために存在せず、自分たちのために
存在しているだけなら、何の役にも立たないものになってしまうでしょう。
Aあなたがたは、世界の光です。 14節
神様は光です。イエス様は光です。そして神の民、イエス様を信じる者も光です。 エペソ5:8
5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
14節 山の上にある町は、隠れることができません。
私たちは隠れクリスチャン、隠れ教会ではありません。丘の上にある教会、余市カナンの丘キリスト教会は、隠れません。
15−16節で14節を説明しています。
あかりをつけたら、ランプをつけたら、それを枡の下に置きません。燭台の上におきます。停電したら、ロウソクをつけます。それを机の下に置きません。机の上に
置きます。そうした方が、はるかに部屋が明るくなります。
あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい、とイエス様は言われました(16節)。すでに私たちが光である、という事実に目を留めることが大切です。その光を隠さず、輝かせなさい、とイエス様は言われています。輝かせる目的が2つあります。
・人々が私たちの良い行いを見るため。 ・天におられる私たちの父なる神があがめられるため。
B義 17節〜20節
17−18節 律法や預言者=旧約聖書全体
イエス様がこの地上に来られたのは、旧約聖書を廃棄するためではなく、成就するため。
聖書は旧約聖書と新約聖書からなっていますが、旧約だけでは福音は分かりません。しかし、新約だけでは福音を深く理解することはできません。両方が大切です。
19節 戒めを守り、守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。しかし、戒めを破り、破るように教える者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。
20節 律法学者やパリサイ人の義、すなわち自分の努力を通しての義では、誰も天の御国に入ることはできません。それにまさるあなたがたの義とは何でしょうか。
それは信仰による義です。信仰による義が、律法学者やパリサイ人の義にまさる義であり、この義を通して、私たちは天の御国に入ることができるのです。
ガラテヤ2:16 しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の
行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
21節以降で、パリサイ人の義にまさる義とはどのような義であるかが、比較されながら説明され教えられます。それは来週見ます。
<まとめ>
私たちは地の塩であり、世界の光です。
<適用>
私たちの身の回りで、どの領域において暗やみがあるでしょうか。特にその領域で光を輝かせていきましょう。そして天の父の御名があがめられるようにして
いきましょう。
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2014年8月17日(日)
説教題 「幸いな生き方」 <マタイの福音書5:1−12>
5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
5:6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。
今日から山上の説教に入ります。イエス様の教えの内容を具体的に知ることができます。
@山上の説教とはどのような教えかを見ます。
1節 イエスは山に登り、 山で話されたので山上の説教や垂訓と言われています。モーセがシナイ山で十戒をイスラエルの民に与えたのに対して、モーセよりも偉大な第二のモーセ・イエス様が、ガリラヤの丘の上で、新しい神の国の律法とも言うべきものを新しいイスラエルの民である弟子たちに与えています。しかし、弟子だけではなく、群衆にも語っています(7:28)。もちろん現代のイエス・キリストの弟子である私たちにも語っておられます。
おすわりになると、 ユダヤのラビは、正式に教える時には座って教えられたようです。
2節 教え(4:23)の内容が3節以降になります。
口を開き、 4:4で 人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。 と言われましたが、
ここで、神の国の福音を信じた者たちが持つべき新しい態度や生活のあり方が教えられています。すなわち、神が定めておられるキリスト者の生き方です。
A前半の4つ 神との関係 3−6節
3節 心の貧しい者は幸いです。 3−10節で8つの幸いについて教えられています。11節と12節は10節の説明です。幸いとは神の目から見て幸いという意味で、神に祝福されている、神に恵まれているということです。決してこの世的な意味での幸福ではありません。この幸いは時間の経過や状況の変化によって消えるものではありません。悲しみや苦しみによって消えてなくなってしまうような幸福でもありません。
神が与える幸いです。御国の民に対して現在どのような状況に置かれていても、神は特権と恵みの中に生きるようにと励ましています。ここに弟子の生き方と弟子の特徴がどのようなものであるかを見ることができます。
心の貧しい者とは、物質的に貧しいのではなく、自分の心が貧しい、すなわち自分の心が破産状態であることを知って、神により頼む者のことです。心の打ち砕かれた者と言えます。神の前に打ちのめされた状態にあり、自分には神の前に誇ることが何一つないことを自覚している人です。自分に絶望している人です。ルカの福音書
18章の例え話で出てくるような人です。
ルカ18:13 18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
天の御国はその人たちのものだから。 神の国(神の支配)が来て、神の御心が行なわれます。現在的な祝福と未来的(終末的)祝福の両方があるとみて良いと思います。
4節 悲しみ者は幸いです。 自分の罪を見て悲しむ者、この世が罪で満ちていることを見て悲しむ者。
その人たちは慰められるから。 慰めてくださるのは神ご自身です。私たちは神様によって慰められます。この世で生きていく時に神様が慰めてくださいます。
完全な慰めはイエス様の再臨の時に与えられます。そこに私たちの希望があります。
5節 柔和な者は幸いです。 神に頼る謙遜な者。神に対しても人に対しても、自分のためには弁解しない。神に信頼し、黙って語らない十字架へ向かうイエス様の
お姿に真の柔和さを見ることができると思います。
その人たちは地を受け継ぐ。
6節 義に飢え渇く者は幸いです。 自分の生活において、神の義を熱心に求め願う者。神の国と神の義を第一に求める者。食べ物と飲み物を求めるように、
神の国を求める。
その人たちは満ち足りる。 神が満たしてくださる。
B後半の4つ 人との関係 7−10節
7節 あわれみ深い者は幸いです。 あわれみは神の自分に対するあわれみを知ることによって与えられます。そうすると他の人にもあわれみを示すことが
できるようになります。
その人たちはあわれみを受ける。 神からも人からも受けることができるでしょう。
8節 心のきよい者は幸いです。 きよいとは、混ざりものがない、ということ。心に混ざりものがない、すなわち二心ではない。一心に神を求める者。
神を喜ばせようして、神に従って生きる者。
その人たちは神を見る。
9節 平和を作る者は幸いです。 神との平和を持ち、人との平和を持つ。
その人たちは神の子どもと呼ばれる。
10節 義のために迫害されている者は幸いです。
Uテモテ3:12
確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
天の御国はその人たちのものだから。 3節の始まりと同じ言葉で終わっている。
11節と12節は10節の説明。ここは特に弟子たちに語られている。
11節 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
弟子たちはイエス様がいなくなった後、そのことを経験しました。
使徒の働き5:40−42
5:40 使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。
5:41 そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。
5:42
そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。
12節 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。
ここに希望があります。この世において、どれだけの報いが見える形で神と人から与えられるかは分かりません。しかし、天の御国において、天において神様が
報いを与えてくださいます。
<まとめ>
私たちは、神の目から見て、幸いな者となりましょう。
<適用>
一番印象に残ったどれか一つを選んで一週間実践してみましょう。できる人は8個を一週間ずつ2ヶ月実践してみましょう。幸いな人生が開かれてくると思います。
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2014年8月10日(日)
説教題 「弟子への招き」 <マタイの福音書4:12−25>
4:12 ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。
4:13 そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。
4:14 これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
4:16 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
4:17 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
4:18 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を
打っていた。漁師だったからである。
4:19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
4:20 彼らはすぐに網を捨てて従った。
4:21 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのを
ご覧になり、ふたりをお呼びになった。
4:22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。
4:23 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
4:24 イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などを
みな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。
4:25 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。
@ガリラヤへ戻られたイエス様 12−17節
12節 ヨハネが捕らえられました。 バプテスマのヨハネからイエス様へ主役が交代しました。
並行記事のルカ4:14には、イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。 と記されています。40日断食の結果と言えるでしょう。現在世界には40日断食を
している方がいますが、本当に頭が下がります。
ルカ4:1には、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。 と書かれていて、洗礼を受け、天が開け、聖霊が下って、イエス様は聖霊に満たされましたが、
40日断食を通して、聖霊の力を帯びたことが分かります。
13節 ナザレ→カペナウム、ガリラヤ地方へ
14−16節 イザヤ書の預言の成就 イザヤ9:1、2
9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、
異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
ガリラヤ地方に住んでいた人々はイエス様によって希望が与えられました。 暗やみ→光、 死→いのち
イエス様の福音の力によって、町は変わります。余市とこの地域もイエス・キリストの福音の力によって、聖霊の力によって、神の働きによって変わります。
17節 そしていよいよイエス様は宣教を開始します。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
イエス様の到来によって神の国(神の支配)がこの地上に来ました。神の国が実現しました。イエス様の再臨によって完全な神の御国(神のご支配)が実現します。
A弟子たちを召されたイエス様 18−22節
18節 ガリラヤ湖で漁師のペテロとアンデレの兄弟が仕事をしていました。
19節 「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」 漁師に対してのコミュニケーション=心に響いたことでしょう。
イエス様は彼らにこのように言われたのです。「私と行動を共にしなさい。人々を神の元に連れ戻す働きをしなさい。福音宣教の働きに参加しなさい。私に従いなさい。」と。
注目すべき点は、彼らが仕事をしている時に召されたことです。今現在、与えられている自分の仕事を一生懸命にしている人に神様からの召しが与えられるのだと
思います。
20節 彼ら(ペテロとアンデレ)は、すぐに網を捨てて従った。
彼らの従順には2つの特徴があります。一つ目はすぐに行動に移した点です。二つ目は網を捨てた点、すなわち自分の仕事を捨てたことです。
イエス様について行くには、犠牲が伴います。彼らは自分の仕事をやめることさえも要求されました。
21節 イエス様は、今度は同じく漁師のヤコブとヨハネの兄弟をお呼びになりました。彼らもペテロとアンデレ同様働いている時に声をかけられました。
22節 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。
彼らもイエス様について行き、従うために犠牲を払いました。彼らの従順には三つの特徴が見られます。すぐに応答したこと、自分の仕事を残した(捨てた)こと、
自分の家族を残したことです。
4人とも声がかかった時に、すぐに応答しています。イエス様に本当について行くには、私たちは自分が大切にしているものを捨てることが(残すことが)要求される
ことが多いです。自分にとって大事なものを捨てることなくして、イエス様に従うことはできません。
すなわちイエス様を第一にするということです。福音宣教を最優先にするということです。イエス様の弟子になるとは、自分自身を捨てることです。自分に死に、
神に生きることです。私たちがイエス様について行くために捨てるべきものは何でしょうか。イエス様について行くのを邪魔をしているものは何でしょうか。
それは仕事かもしれません。家族かもしれません。自分の自由な時間かもしれません。お金かもしれません。いずれにしても何も捨てないで、今の状態のままで、
何も変わらないで、イエス様について行くということはできません。それでは中途半端な献身になってしまいます。イエス様の弟子になるには、自分を完全に神に
明け渡すことが求められます。
マタイ10:37−38
10:37
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者では
ありません。
10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
私たちの教会(余市カナンの丘キリスト教会)のビジョンは3つあります。礼拝共同体、弟子共同体、宣教共同体です。5月30日に開所式をして宣教を開始しました。6月1日から礼拝をスタートさせ、2ヶ月が経ちましたが、礼拝共同体となりつつあります。そして今は神様は私たちを一歩新しい領域に進めさせようとしているのを
私は感じています。それは弟子共同体になりなさい、というチャレンジです。
私たちはせっかくイエス様から「わたしについて来なさい。あなたを(あなたがたを)人々を救う働き人にしてあげよう。」と声をかけられているので、あの4人のように
従うという応答をして、イエス様について行きたいと思います。
Bガリラヤ伝道の要約 23−25節
23節 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
イエス様の働きは主に3つありました。 ・教え ・福音宣教 ・癒し
教えと福音宣教についてはマタイ5−7章に、癒しについてはマタイ8−9章に記されています。それは来週以降見ていきます。
人間の霊、魂、体に健やかさを与えるためにイエス様は働かれました。福音宣教を通して霊に働きかけ、教えを通して魂(心)に働きかけ、癒しを通して体に
働きかけました。三重の使命でした。イエス様の働きは言葉だけでなく、わざを伴いました(24節)。
これは私たちの働きの模範です。
24節 イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。
25節 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。
イエス様によって人々は霊と魂と体のすべての領域において健やかさが与えられたので、イエス様のうわさは広まり、多くの群衆がイエス様の元へやって来たのです。
<まとめ>イエス様は私たちにも「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 「人々を救う働き人にしてあげよう。」と声をかけておられ招いて
くださっています。ペテロたちのように従うという応答をしていきたいと思います。
<適用>
今の時点であなたがイエス様について行くとはどういうことでしょうか。祈りつつ考えてみましょう。
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2014年8月3日(日) 聖餐式
説教題「悪魔に勝利する秘訣」 <マタイ4:1−11>
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
イエス様は洗礼を受け、聖霊が下って公生涯に入られましたが、もう一つ公生涯に入る前にするべきことがありました。それは悪魔の試み(誘惑)に勝利する
ことでした。悪魔は霊的な存在です。目に見えませんが、実在します。天使が、神様に反抗し罪を犯したので、天から追放され堕落して悪魔と悪霊にされたのです。
@試練について
試練とは信仰を試すものとして神様が用いられる方法です。一方誘惑は、悪魔が用いて悪と罪に陥れようとします。
ヤコブ1:2−4
1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
1節 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
イエス様が受けた悪魔の試みは、御霊に導かれたものでした。神の御旨であり、神のご計画であった、ということです。悪魔はイエス様に罪を犯させ、救い主としての資格を失わせようと働いたのです。悪魔は最初の人間アダムを誘惑し、罪を犯させることに成功しました。しかし、第二のアダムであるイエス・キリストは悪魔の誘惑に勝利されたのです。
2節 イエス様は40日40夜断食をし、空腹を覚えられました。その時に悪魔がやってきてイエス様を誘惑したのです。
イエス様が悪魔に勝利した方法から今日学んでいきたいと思います。悪魔による三つの試みを今日の説教のアウトラインにします。
@第一の試み 3−4節
3節 「石がパンになるように、命じなさい。」と悪魔は言いました。
4節 『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。と聖書のみことばを引用して、イエス様は悪魔の誘惑に
勝利しました。これは申命記8:3の引用です。
8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
空腹ですからこの誘惑は強烈だった、と思います。断食していると、食べ物が食べられるありがたみがよく分かります。病気になって健康のありがたみが分かるのと同じようなものです。
イスラエルが荒野にいた時に神から語られた言葉をイエス様は引用されました。イスラエルの民は不従順によって荒野で倒れましたが、イエス様は従順によって
荒野で勝利しました。
悪魔との戦いは、まさに霊的戦いです。人生という荒野を生きていくことは霊的戦いです。様々なことが起こります。イエス様は神のことばという武器を用いて悪魔の試みに勝利されました。
4節 イエス様は、〜と書いてある、と言われましたが、これは過去において書かれた、また語られたことがただ過去のものでなく、今も生きて働いていることを強調
しています。すべてのものが変わっていく世の中で、神の言葉だけは変わりません。だからこそ神の言葉には力があります。悪魔に打ち勝つ武器です。
エペソ6:17には 御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい、と書いてあります。
私たちも悪魔から受ける試み(誘惑)は、3節の「あなたが神の子なら」とあるように、「あなたが神の子なら、なぜあなたはそのような目にあっているのか」、というものが多いです。続いて悪魔は言います。なぜそのような目にあっているのかというと、「あなたは神から愛されていないからだよ。」 そのようにして疑いを心に生じさせようとしてきます。
その時に大事になってくるのが、イエス様が悪魔の試みを受ける前に父なる神様から告げられた声ですね。マタイ3:17「これは、わたしの愛する子、わたしは
あなたを喜ぶ。」 この御声は父なる神様から私たち一人ひとりにも告げられている声であることを確信しましょう。その時に、悪魔が働きかけて私たちの心に
生じさせた疑いが消えていきます。
私たちは神の口から出る一つ一つの言葉によって生き生活しているでしょうか。霊の食物である神の言葉を食べているでしょうか。
食事をしなければ、私たちの体は弱まり、ずっと食べなければ死んでしまいます。しかし、食べれば体が強められ生きることができます。同じように、もし私たちが霊の食物である神のみことばを読んだり聞いたりして食べなければ、霊が弱まり、霊が死んでしまいます。しかし、霊の食物である神のみことばを読み聞いて食べるなら、霊が強められ、信仰が強められ、生き生きと生きることができるようになります。
A 第二の試み 5−7節
6節 悪魔も聖書を引用することがあります。実際ここでは詩篇91:11、12の聖書の言葉を引用しています。自分の都合のいいように変えてですが。
イエス様は十字架の時も同じような試みに会われました。マタイ27:40−43
27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」
イエス様は「あなたが神の子なら十字架から降りて来い。」と試みられたのです。
私たちクリスチャンも聖書を自分の都合のいいように引用し解釈してしまう危険があるので、気を付ける必要があると言えます。
ここでもイエス様は申命記のみことばを引用して悪魔を退けました。
申命記6:16
6:16 あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。
B 第三の試み 8−11節
悪魔は働いています。ペテロはこのように記しています。
Tペテロ5:8−9
5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
ペテロは自分の体験からも知っていたのです。「引き下がれ、サタン」とイエス様から言われてしまったことがあるのです。マタイ16:21−23
16:21
その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に
よみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
16:23
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを
思っている。」
悪魔(サタン)の働きは、十字架を経ない道を私たちに提供することにあります。誘惑の本質は、神が私たちに与えようとされているものを、神の計画や方法とは
違ったルートで獲得させようとすることにあります。
11節 悪魔の誘惑に勝利し、悪魔が離れていくと、天使がイエス様に仕えました。天使は霊的な存在で目に見えませんが実在し、クリスチャンに仕える働きをして
います。
ヘブル1:14
1:14 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。
<まとめ>
悪魔が働いているのは事実ですが、それさえも御霊の導きであり、神のご計画の一部であり、神様の許しなしには起こっていないことを覚える必要があります。
すべてを支配しているのは悪魔ではなく、神ご自身です。信仰とは、神の主権を認め、いかなる状況の中でも、神を信頼することです。
イエス様はご自身が試みを受けられたので、試みられている私たちを助けることがおできになります。ヘブル2:18、4:15−16
2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた
のです。
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
<適用>
神を信頼し、神に従うと同時に私たちは悪魔と戦わなければなりません。
ヤコブ4:7
4:7 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
悪魔に信仰によって立ち向かい、霊的な武具を身に付けて守り、そして攻撃の武器であるみことばの剣をもって、攻める必要があります。すなわちみことばを蓄え、
みことばを宣言し、みことばを使って祈るのです。みことばによって私たちは悪魔の試みに勝利することができます。
ローマ8:37
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私たちは勝利者となることができます。ますますみことばによって自分の霊を養い、自分の霊と信仰を強めて、悪魔の試みに勝利していきましょう。私たちは
主イエス・キリストにあって敗北者ではなく、すでに勝利者です。そしてこれからも勝利者になれます。そのことを確信しましょう。
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2014年7月27日(日)
説教題「天が開かれますように」 <マタイ3:13−17>
3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」
そこで、ヨハネは承知した。
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
今日の箇所はイエス様が洗礼を受けた場面ですが、ここに三位一体の神様の働きをみることができます。
@イエス様
ナザレで生活をしていたイエス様でしたが、30歳になられて公生涯に入るにあたって、洗礼を受けます。
イエス様は他の人たちのように、また私たちのように悔い改める必要はありませんでしたが、私たちに模範を示すために洗礼を受けられました。
並行記事の ルカの福音書3:21−23 にはこのように書かれています。
3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
3:23 教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子、順次さかのぼって、
ある意味私たちも洗礼をもって公生涯が始まっているといえます。
イエス様が洗礼を受け、祈っておられると、天が開け、聖霊が下ってきました。
A聖霊様
海外からの講師がよく日本の天は閉ざされていると言います。他の国でリバイバルが起こるのはその国の天が開かれたからだと思います。その開かれた鍵が祈り、
特に霊的戦いの祈りではないでしょうか。
日本の上の天が開かれる必要があります。北海道の天が開かれ、そして余市とこの地域の天が開かれるように祈りましょう。
イエス様の上に神の御霊が鳩のように下ってきました(16節)。鳩は柔和の象徴です。イエス様は火を下す神ですが、鳩が下ってきました。ここにイエス様の中に
「神の慈しみと厳しさ」の両方を見ることができます。神の愛と神の裁きです。イエス様にはその両方があります。どちらか一方ではありません。
洗礼を受け、聖霊が下って、イエス様は公生涯に入られます。
並行記事の ヨハネの福音書1:32−34にはこのように書かれています。(注意:この福音書を書いたのはバプテスマのヨハネではなく、イエス様の弟子のヨハネです)
1:32
またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
1:33
私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上に
とどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
1:34
私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
B父なる神様
イエス様が洗礼を受けられると、父なる神の声が聞こえます。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(17節)
イエス様は、父なる神に愛されていました。父なる神は、イエス様を喜んでいました。
私たちも神の子供で、神に愛され、神に喜ばれている存在です。そのことを確信しましょう。それだけではなく、私たちは神の働きに召し出されています。
<まとめ>
イエス様の生涯はすべて聖霊様によって導かれました。そしてイエス様は父なる神様の意志をことごとく成し遂げていきました。
私たちも公生涯に入っています。聖霊様に導かれ、神様のご計画を成し遂げ、イエス様のような働きをしていきたいものです。
<適用>
天が開かれるように祈りましょう。自分の上の天が開かれるように、自分の家族の上の天が開かれるように、余市とこの地域の天が開かれるように祈りましょう。
神の御霊が下ってくるように祈りましょう。天が開かれる時にリバイバルが起こります。
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2014年7月20日(日)
説教題「再臨のキリストの道備えをせよ」 <マタイの福音書3:1−12>
3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。
3:4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
3:9 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
イエス様はナザレで育ち、成長しました(マタイ2:23)。
@バプテスマのヨハネ
イエス様の公生涯のためにバプテスマのヨハネが現われ、イエス様のために道を備えます。彼はユダヤの荒野で教えました。
バプテスマのヨハネの宣教の内容は、基本的にイエス様と同じでした(マタイ4:17)。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」=「方向転換しなさい。180度向きを変えなさい。神の支配が来ようとしているから。自分中心ではなく、神中心の生き方に変えなさい。」というものでした。
悔い改めは後悔とは違います。後悔は悔いますが、改めません。しかし、ヨハネが求めたもの、またイエス様が群衆に求めたものは、悔い改めでした。
人々はヨハネから水のバプテスマ(洗礼)を受けました。私たちも自分の罪を告白し、洗礼を受けました。
9節 「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」
悔い改め救われた者として、それにふさわしい生き方をしなさいとヨハネは人々に決断を迫りました。私たちも救われ、悔い改めましたが、実を結ぶことが神様から期待されています。私たちにはキリストに似た品性と人格を持つことが求められ、期待されています。
イエス様はおっしゃいました。ヨハネの福音書15:5−6
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
パウロは書いています。 ガラテヤ5:22−23
5:22 -23 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
10節 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
厳しい警告です。
Aイエス・キリスト
ヨハネが授けたのは水のバプテスマでしたが、ヨハネが紹介したイエス・キリスト、イエス様が授けるのは、聖霊と火のバプテスマです。
二つの解釈ができると思います。私は両方とも合っていると思っています。一つは信じる者たちに聖霊と火が注がれるというものです。これはペンテコステにおいて成就しました。
使徒2:1−4
2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
これは聖霊の力です。キリストのような働きができるようになるための力です。私たちには更なる聖霊の満たしと火によって聖められ、滅び行く魂に対する情熱が与えられる必要があります。
私たちには聖霊による品性と聖霊による力の両方が必要です。両方とも欠かすことができません。どちらか一方だけを強調してはいけないと思います。
もう一つの解釈があります。それは聖霊と火のバプテスマを二つに分ける解釈です。イエス・キリストを信じる者には聖霊が注がれます。しかし、イエス・キリストを信じない者には火による裁きが与えられるというものです。
黙示録20:12−15
20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
実際12節 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。
を見るとそのような説明が続いています。
私は農作業で選別をしますが、ミニトマトでも、水ナスでもそうです。良いものは冷蔵庫に入れ、良くないものは捨てます。
最後の審判においてイエス様は裁きをなさるということです。
B私たち
バプテスマのヨハネがイエス様の道を備えたように、私たちにもなすべき働きがあります。それは再臨のキリストの道を備える働きです。
そのメッセージはヨハネと同じです。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 神に支配はイエス様が来られたことによって来ましたが、まだ完全には来ていません。だからこそイエス様は主の祈りで「御国が来ますように」と祈るように教えられたのです。すなわちそれはイエス様の再臨であり、完全に神が支配する国の到来が来るようにという祈りです。間もなくメシヤ的王国、千年王国が来ようとしています。王であるイエス・キリストが来られます。再臨されます。そして完全な神の支配が訪れます。その時に裁きがあります。
私たちが伝えるメッセージは、「悔い改めなさい」です。
「神に裁かれないために、火の池に投げ込まれないために、悔い改めなさい。方向転換しなさい。主に会う備えをしなさい。」というメッセージです。
人々の心を整え、救い主イエス・キリストを紹介するのが、余市カナンの丘キリスト教会に与えられている最大の使命です。
<まとめ>
1.バプテスマのヨハネの働きは、水のバプテスマ(洗礼)を授けることでした。
2.イエス様の働きは、聖霊と火のバプテスマを授けることです。
3.私たちの働きは、再臨のイエス様の道を備えることです。
<適用>
・私たちが宣教することを通して、洗礼者が与えられるように祈りましょう。
・私たちに聖霊と火が注がれるように祈りましょう。
なぜなら、私たちが聖霊の火を受けることによって、人々が裁きの火を受けなくてすむようになるからです。
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2014年7月13日(日)
説教題「私たちを救い出す神」 <マタイの福音書2:13〜23>
2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
2:14 そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。
2:16 その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。
2:17 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。
2:18 「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」
2:19 ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現われて、言った。
2:20 「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」
2:21 そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地にはいった。
2:22 しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。
2:23 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。
主の祈りで「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈りますが、神様は私たちを様々な悪から救い出してくださるお方です。
東方の博士たちは幼子イエス様に最高の礼拝を捧げた後、神様に夢で言われた通り、ヘロデ王がいるエルサレムには行かずに別の道で自分たちが来た国へ帰って行きました。
@エジプトへ逃げたイエス様
ヘロデ王に殺される前に神様は幼子イエス様を守るために父親のヨセフに天使を遣わして夢で「エジプトへ逃げるように」言いました。
これも預言の成就であるとマタイは言うわけです。
ホセア書11:1 イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。
マタイはこの福音書を読む人、またこの福音書から説教を聞く人に、イエス・キリストは真のユダヤ人の王であり、イエス・キリストは真のイスラエルであることを伝えたいのです。ですからここでイエス様に起こった出来事をモーセの経験と比べているのです。その当時のイスラエルの幼児は、モーセを含めて、エジプトの王であるパロ王にいのちをねらわれました。その時に神様に従順に従い、いのちを助けたのは助産婦でした。
出エジプト1:16−17
1:16 彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」
1:17 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。
そしてモーセを通してイスラエルの民はエジプトから脱出しました。15節を通してマタイはイエス様に起こっている出来事を出エジプトと結びつけて説明しているわけです。ユダヤ人には理解しやすいのです。
ここで分かることは、神様はエジプトから呼び出すことのできるお方であるということです。エジプトに支配されていたイスラエルの民は脱出することができました。エジプトに逃げていたイエス様たちはエジプトから脱出しイスラエルへと戻ることができました。私たちもエジプトという罪の世界から脱出することができました。またパロ王やヘロデ王というサタンの支配から解放されました。私たちは救い出されたのです。そしてこれからも救い出されるのです。「神様はエジプトから(苦難から)、私たちを呼び出すことのできるお方です。私たちを守ってくださるお方です。
ちなみにエジプトへの旅行費、またエジプトでの滞在費・生活費は東方の博士たちからの贈り物(黄金)などでまかなわれたと思われます。神様は経済的にもイエス様とその家族を守られました。
Aイスラエルへ戻ったイエス様
ヘロデ王が死ぬと、神様から天使が遣わされ、「イスラエルの地へ行きなさい」と告げられます。
ここではエレミヤ書から引用しています。エレミヤ31:15−17
31:15 主はこう仰せられる。「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている。」
31:16 主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。・・主の御告げ。・・彼らは敵の国から帰って来る。
31:17 あなたの将来には望みがある。・・主の御告げ。・・あなたの子らは自分の国に帰って来る。
ここの背景は、旧約時代にユダヤ人の息子たちがバビロンに連行されようとしている時に、母たちが泣いたのです。自分たちの子が殺され母親たちが泣いています。昔イスラエルの歴史の中で起こった事件に似た出来事が今また繰り返されました(16節)。多くの幼子たちが殺され、母親たちが泣いたのです。
しかし、預言者エレミヤは捕囚から帰還するという希望についても預言をしています。私たちも囚われているものから解放されるという希望があります。
旧約の歴史においてイスラエルの国は、民族として二つの大きな解放を体験しました。それはエジプトからの脱出とバビロン捕囚からの帰還です。マタイはこの二つを引用することを通して、イエス・キリストは真のイスラエルとして、ユダヤ人の王として、もっといえば救い主として、旧約の預言を成就しているお方であることを説明しています。また証明しようとしています。
Bガリラヤ地方のナザレへ行って住んだイエス様
ヘロデ王が死んだ後、息子のアケラオがユダヤを治めていました。彼は非常に残忍な王であったようです。
イエス様はいきなりピンポイントでナザレへ行ったわけではなく、まずイスラエルに入り、それからガリラヤへ行き、最後にナザレという町に導かれました。ここに私たちへの教訓があるように思います。神様はいきなりピンポイントでお語りになるのではなく、徐々に道を明らかにすることが多いということです。ヨセフたちが従うたびに、次の道を神様はヨセフに示されました。
私たちを導く場合も神様は同じような方法をとると思われます。すなわち一歩一歩です。私たちが一歩従う時、神様は次の一歩を示してくださるということです。ですからあまり将来のことを明日のことを思い煩わないで今日という日を神様に従って歩むことが大切だと教えられます。
マタイ6:33−34
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
ナザレはヨセフとマリヤの故郷で、北にある非常に小さい村でした。ナタナエルがこのように言っています。
ヨハネの福音書1:46 「ナザレから何の良いものが出るだろう」
もしかしたら人々は余市を見て、この小さい田舎町である余市から何の良いものが出るだろうと言うかもしれませんが、果物だけではなく、霊的に良いものが出ることを私は主にあって期待しています。
<まとめ> イエス様は私たちを守られ、救い出されるお方です。私たちは今は悲しみがあるかもしれませんが、今は囚われているかもしれませんが、神様は私たちを解放してくださるお方です。私たちには希望があります。
エレミヤ31:17 あなたの将来には望みがある。・・主の御告げ。・・
<適用>
北にあるナザレという小さな村から良いものが生まれました。すなわちイエス様です。この小さな余市という町から霊的に良いものが、リバイバルが生まれるように神様に祈りましょう。
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2014年7月6日(日)
説教題「イエス様に最高の礼拝を捧げよう」 <マタイの福音書2:1〜12>
2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
2:6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
2:12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。
この2週間で、イエス様は人としてはアブラハムの子孫・ダビデの子孫として生まれ、また神としては聖霊により処女マリヤから生まれたことを見ました。
@イエス様はヘロデ王の時代に誕生した 1節
イエス様の系図のところでも話しましたが、イエス・キリストは神話的・空想的な存在ではありません。イエス様は歴史的な存在です。系図があります。アブラハムの子孫、ダビデの子孫として誕生しました。
イエス様が生まれた年代はある程度はっきりとしています。それはヘロデ王の時代です。彼は紀元前37年〜紀元前4年にユダヤを治めました。
使徒信条でも告白しましたが、ピラトの時代に、ピラトの裁判によって十字架に架かり死なれました。
Aイエス様が生まれた場所はベツレヘムでした。 1節
生まれた場所もはっきりとしています。ユダヤ地方のベツレヘムという町でした。エルサレムの南8キロの所にあります。ベツレヘムはダビデの町と呼ばれ、ダビデ王が生まれた場所でもありました。ダビデの子孫としてイエス様が生まれる場所としてふさわしいと言えます。
これも預言の成就でした。救い主イエス様がアブラハムの子孫であり、ダビデの子孫として誕生することも預言され約束されていました。また処女降誕されることも預言者イザヤによって預言されていました。生まれる場所は預言者ミカによって預言されていました。
ミカ5:2
5:2
ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。
B礼拝されるべきお方イエス・キリスト 10、11節
東方とは、バビロン、ペルシャ、アラビアの地方であったと考えられています。いずれにしても博士たちは、はるばる遠くからエルサレムにやって来ました。時間的にも体力的にも大きな犠牲を払いました。
一方エルサレムにいた人たちはどうでしょうか。ベツレヘムまでたったの8キロです。近くにいたにも関わらず誰もイエス様のところへは行きませんでした。預言を知っていたにも関わらずです。聖書の知識はありましたが、行動しませんでした。聖書の預言の言葉が信仰に結びつきませんでした。彼らはヘロデ王を恐れました。
博士たちの特徴を3点見ることができます。
1) 喜び 10節
2) 謙遜 ひれ伏して拝んだ
3)贈り物 高価なものを捧げた。
彼らは残りものではなく、自分が捧げることができる最高のものを捧げました。時間において犠牲を払っただけでなく、財政的にも犠牲を払いました。王様であるイエス様に捧げたのです。
これが真実な礼拝です。旧約聖書でアベルの捧げ物が神に喜ばれたのを見ることができます。
創世記4:3〜5
4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。
4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。
4:5
だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
<まとめ> イエス様は私たちの罪を救う救い主であり、またいつも私たちとともにおられるお方です。このイエス様は礼拝されるべきお方なのです。
<適用>
余市カナンの丘キリスト教会のビジョンの一つは礼拝共同体になることです。教会としても個人としても真の礼拝者になることが私たちの大きな目標の一つです。
ヨハネの福音書4:23
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
「いつやるの?今でしょ」がはやりました。 いつ礼拝するの? 今でしょ!
神は真の礼拝者を求めておられます。礼拝共同体となる教会を求めておられます。私たちは神様にこのように言いましょう。「私はあなたが求めておられる礼拝者になります。私たちはあなたが求めておられる教会になります。」
最後に確認します。真の礼拝者に見られる3つの特徴は何だったでしょうか? 喜び。謙遜。捧げ物。
東方の博士たちのように、アベルのようにイエス様に最高の礼拝を毎週、また毎日捧げていきましょう。
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2014年6月29日(日)
説教題「救い主イエス・キリストの誕生」 <マタイの福音書1:18〜25>
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。
先週からマタイの福音書からの説教を始めました。
マタイの福音書を書いたのは、収税人から12使徒の一人になったマタイです。マタイが伝えたいのは、福音です。イエス・キリストの福音です。マタイはこの福音書を通して、私たちがイエス・キリストと出会うことを期待しています。
前回はイエス様の系図を見ました。今日はイエス様の誕生を見ます。
@聖霊による誕生 18節、20節
イエス様の誕生の記述ですが、ルカの福音書の場合はマリヤの視点で書かれ、マタイの福音書はヨセフの視点で書かれています。
ユダヤの結婚ですが、まず婚約をします。そして一年間別々に暮らし、その後で結婚式をあげて一緒に暮らし夫婦生活に入る、というものでした。婚約の段階で法律的には夫婦と認められました。今日の箇所は、婚約の期間に起こっている出来事です。
まだ夫婦生活をしていないのに、マリヤが妊娠していることが判明したわけです。自分に身に覚えがないので、ヨセフは困惑し、苦しみます。この場合ヨセフには二つの選択肢がありました。一つ目はさらし者にすることです。これはこのことを公にするということです。旧約の律法によれば姦淫の罪は死刑でした。
申命記22:22〜24
22:22 夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。
22:23 ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、
22:24 あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。
もう一つは内密にさらせることです。当時の離婚法によって、公にしないで離婚状を書いてひそかに去らせることです(19節)。
夫のヨセフは後者を選びました。それを決断し実行しようとして、このことを思い巡らしていた時、神の介入がありました。マリヤの妊娠は聖霊によるものであることを天使に告げられました。ヨセフは神(天使)の声に従いました。(24、25節) 神様はご自身の時に、問題解決の道を開かれます。
マタイ1章の1−17節はイエス様の人間的な起源(すなわち先祖、アブラハムの子孫、ダビデの子孫)について書き、18−25節はイエス様の神的な起源(すなわち聖霊)によることを書いています。このことはイエス様が100パーセント人間であり、100パーセント神であることを示しています。
A聖霊による誕生を別の言葉で言えば、処女降誕です。 23節
22節 このことが起こったのは預言の成就でした。救い主イエス様がアブラハムの子孫であり、ダビデの子孫として誕生することも預言され約束されていましたが、処女降誕されることも預言者イザヤによってイエス様がお生まれになる700年も前から預言されていました。
イザヤ7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
B救い主であり、共におられるイエス・キリスト 21節
イエスという名前がつけられました。ユダヤでは名前をつけるのは父親の義務(特権)でした。しかし、神はヨセフから父親としての権利を放棄させ、神様が名前をつけました。すなわち、イエスの父は神であることを宣言されたのです。
イエスの意味は、「主は救い」です。イエス様はイスラエルの民を、全人類の民を、そして私たちを、罪から救ってくださる方です。
ローマ6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。
イエス様のもう一つの名前は、インマヌエルでした。これは「神は私たちと共におられる」という意味です。マタイの福音書の最後の28:20に「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と書かれています。ですからマタイの福音書はインマヌエルで始まり、インマヌエルで終わっています。その意味は、イエス様はいつも、私たちと共におられるということです。
<まとめ> イエス様は私たちの罪を救う救い主であり、またいつも私たちとともにおられるお方です。
<適用>
私たちの罪は赦されています。イエス様が共にいないように感じることがあるかもしれませんが、忘れないでください、イエス様はいつもあなたと共におられます。そのことを覚えて、その事実を確信して、この一週間を過ごしていきましょう。
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2014年6月22日(日)
説教題「救い主イエス・キリストの系図」 <マタイの福音書1:1〜17>
1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
1:2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、
1:3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
1:4 アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、
1:5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
1:6 エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、
1:7 ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、
1:8 アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、
1:9 ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、
1:10 ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、
1:11 ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
1:12 バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、
1:13 ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、
1:14 アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、
1:15 エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、
1:16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
1:17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。
今日からマタイの福音書から説教をします。
マタイの福音書を書いたのは、収税人から12使徒の一人になったマタイです。マタイが伝えたいのは、福音です。イエス・キリストの福音です。マタイはこの福音書を通して、説教を聞くことや読むことを通して、私たちがイエス・キリストと出会うことを期待しています。
そして彼はイエス様の系図から書き始めます。
系図を通して、イエス・キリストは空想上の存在ではなく、神話的な存在でもなく、歴史的な人物であることを、マタイは示しています。イエス・キリストはユダヤ人でした。
@まず系図に出て来る男性たちを見たいと思います。
1節 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
神様は今から約4000年前にアブラハムの子孫を通して全世界が祝福されることを預言し約束しました。
創世記12:1−3
12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
また今から3000年前にダビデの子孫を通して王国が永遠に確立されることを預言し約束しました。
Uサムエル7:12−16
7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
7:14 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。
7:15 しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。
7:16 あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」
この預言と約束はイエス・キリストを通して成就されたというのが、マタイがぜひとも伝えたいことでした。
それで終わらず、イエス・キリストを信じることを通して、私たちもアブラハムの子孫として、イエス・キリストの系図に組み込まれることができます。養子として入ることができます。すなわち神の家族に入ることができるのです。
ガラテヤ3:26−29 、、、、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
A次に系図に出て来る女性たちを見たいと思います。
タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻。この4人はいずれも皆罪深い女性たちでした。タマルは姦淫の罪を犯し、ラハブは遊女、ルツは異邦人、ウリヤの妻はバテシェバのことでダビデと不義の関係を結びました。しかし、マタイは、聖霊の導きによってこの女性たちを系図から省くことをせず、載せました。恥といえる部分を隠さずに明らかにしました。ここに福音の真髄が表れています。すなわち神の恵みです。
Bキリストと呼ばれるイエス
16節 キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
今までの流れであれば、ヤコブはヨセフを生み、ヨセフはマリヤによってイエスを生んだと書かれるはずですが、そのようには書かれていません。そうではなくここでは、イエスはマリヤからお生まれになった、と記されています。すなわちここで、イエスの誕生にヨセフは関与していないと言っているのです。生物的に、遺伝的に、ヨセフはイエスの誕生に関与していない。ヨセフは法的にイエスの父になったということです。
イエスは人間として生まれました。アブラハムの子孫、ダビデの子孫として生まれました。と同時にイエスは神の子として生まれました。マリヤとヨセフによって生まれたのではなく、聖霊によって生まれた。これは来週更に見ていきます。
<まとめ>
マタイによるイエス・キリストの系図において、はっきりと2つのことが分かります。一つ目は、イエス様はアブラハムの子孫、ダビデの子孫として生まれたメシヤ(救い主)であること。二つ目は、イエス様はマリヤとヨセフからではなく、超自然的に(神的に)、聖霊によって処女マリヤから生まれたメシヤ(救い主)であること。
イエス・キリストは100パーセント人間であり、100パーセント神です。
<適用>
私たちもイエス・キリストを信じる信仰を通して、神の家族の系図に入れてもらえることができます。イエス・キリストを信じる信仰によってアブラハムの子孫となることができ、神の祝福を受けることができるのです。そのことを覚え、感謝しましょう。
ガラテヤ3:6−9、14
3:6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
3:7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。
3:9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
3:14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。
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2014年6月15日(日) 父の日礼拝
説教題「父なる神の愛」 <マタイの福音書7:7〜11>
7: 7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7: 8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
7: 9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、
どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
出発礼拝ではイエス・キリストに焦点を当てました。先週のペンテコステ礼拝では聖霊に焦点を当てました。今日の父の日礼拝では父なる神に焦点を当てたいと思います。
このことによって私たちが信じている神は三位一体の神であることを信仰告白しています。
@私たちは神の子供である。
イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、私たちは新しく生まれ変わり、神の子供とされています。
ガラテヤ3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
また聖霊の働きによって、神様のことを「お父さん」と親しく呼びかけ、祈ることができます。
ローマ8:14−15 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
A私たちは神の子供として父なる神から愛されている。
人間の親でも自分の子供を愛して、良い物を与えようとしています。とすれば、なおのこと、天におられる父が、どうして、愛している神の子供のために良い物を下さらないことがあるでしょうか。
あり得ないのです。必ず良い物を与えてくださるのです(11節)。
B神の子供として父なる神から愛されていることを確信して、与えられるから、求めなさい。7−8節
父なる神は、一番良い時に、一番良い方法で、神の子供の願いをかなえてくださいます。
父なる神は、神の子供にとっての最善をなしてくださり、すべてを益と変えてくださいます。
ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
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2014年6月8日(日) ペンテコステ礼拝
説教題「ビジョンを実現させる聖霊の働き」 <使徒の働き2:1〜4>
2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
先週の出発礼拝では余市カナンの丘キリスト教会のビジョンを語りました。3つのビジョンがあります。@礼拝共同体 A弟子共同体(交わりと奉仕の共同体) B宣教共同体
礼拝共同体となるのは神に対する務め、弟子共同体となるのは教会に対する務め、宣教共同体となるのはこの世に対する務めです。
初代教会もイスラエルの民もこの3つのビジョンを実現させるために神に選ばれ、召し出されましたが、私たちもこの3つのビジョンを余市とこの地域で実現させるために、神様から選ばれ、召し出されています。
先週開きましたマタイの福音書28:16−20の言葉をイエス様から聞いた弟子たちはどのように感じたでしょうか。おそらくこれは非常に難しいぞと思ったのではないでしょうか。漁師である私たちに本当に世界を変える仕事ができるのだろうか、と。でもイエス様は私が共にいると約束し、聖霊を注ぐとも約束されました(使徒1:5、8)。
人間の力では不可能であることが、聖霊によって可能になったのです。
今日も3つのビジョンを見たいと思います。
@礼拝共同体
ルカ24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。
使徒1:14 みな心を合わせ、祈りに専念していた。
使徒2:1 みなが一つ所に集まっていた。
一致して、一つとなり、神をほめたたえ、聖霊を待ち望んでいました。この礼拝と祈り会を劇的に変えたのは、聖霊の訪れでした(使徒2:2〜4)。
イエス様は言われました。
ヨハネ4:23、24 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を
礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
この時代も真の礼拝者が求められています。
A弟子共同体
使徒2:42 彼らは使徒たちの教え(イエス様の教え)を堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
使徒2:43−46 この初代の教会共同体には交わりと奉仕がありました。ここにキリストの弟子としての姿を見ることができます。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、
このことは助け主である聖霊によって可能となります。
B宣教共同体
使徒2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
ペンテコステの結論は宣教の働きです。救いです。
礼拝において、聖霊による響き(使徒2:2)が必要です。聖霊の風と炎(使徒2:2,3)が必要です。
要するに聖霊様による何らかの働きが絶対的に必要なのです。天からの神の介入が本当に必要なのです。
ですから私たちは礼拝ごとに聖霊を求め、聖霊を待ち望みます。
礼拝が祝福されると、交わりが生き生きとしてきます。皆がいよいよイエス・キリストの弟子となり、キリストの似姿に近づいていきます。
Tテサロニケ5:11 互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。
このような礼拝と集まりには魅力があると思います。これは人間の力によって生み出されるものではありません。聖霊様の働きによるものです。
最終的には、礼拝と交わりの後に、宣教の働きが動き始めます。魂の救いが起こってきます。神の臨在が教会の内側から教会の外側へと流れ出ていくのです。
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2014年6月1日(日) 出発礼拝
説教題
「教会のビジョン・進むべき方向」 <マタイの福音書28:16〜20>
28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
余市カナンの丘キリスト教会には3つのビジョンがあります。
@礼拝共同体
救い主イエス・キリストを全力を尽くして礼拝する。
マタイ28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。
弟子たちは死からよみがえられたイエス・キリストを礼拝しました。
エジプトを脱出したイスラエルの民は、幕屋を作り礼拝する民となりました。出エジプト記とレビ記には幕屋(礼拝)の規定について細かく書かれています。
神様がいかに礼拝に関心を持っておられるかが分かります。
私たちは霊的な出エジプトをした民です。すなわちエジプト(罪の世界)を脱出し、救い出された者です。私たちは初代の弟子たちやイスラエルの民のように、
礼拝する共同体となることを神様から期待されています。
ローマ12:1−2 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物と
してささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、
完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
新しい出発をするにあたって、心の一新によって自分たちを変えていただく必要があります。
A弟子共同体
イエス・キリストに従う弟子となる。
マタイ28:19 あらゆる国の人々を弟子としなさい。
マタイ28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
初代の弟子たちは使徒たちの教えを堅く守りました。
使徒2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
出エジプト記や申命記に書かれていますが、律法が神から与えられました。すなわち神の御言葉です。イスラエルの民は律法を守ることを神から求められました。
私たちは初代の弟子たちやイスラエルの民のように、神の御言葉である聖書の言葉を守り、実行することによって、イエス・キリストの弟子となることができます。
B宣教共同体
救い主イエス・キリストを宣べ伝える。
マタイ28:19 それゆえ、あなたがたは行って、
初代の弟子たちは、イエス様の命令に従って、出て行き伝道し、バプテスマ(水の洗礼)を授けました。彼らは失われている魂に対して燃えるような情熱を持っていました。
それはイエス様が持っておられた情熱です。人類に対して燃えるような愛を持っていたからこそ、イエス様は十字架に架かられました。
人類に対して燃えるような愛を持っていたからこそ、父なる神様はひとり子であるイエス様をこの地上に遣わされました。
ヨハネ3:16〜17 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
5月30日の開所式で金子先生が説教をしてくださいましたが、イスラエルの民に対しての神の計画は出エジプトで終わりではありませんでした。民を約束の地へ導き、
その地を勝ち取ることが神の計画だったのです。 出エジプト→カナンの地。
私たちで言えば、カルバリの丘→カナンの丘。余市と周辺地域をイエス・キリストの福音によって勝ち取ることが私たちに与えられている使命です。
余市の町と周辺の地域にイエス・キリストの福音を伝えていくのです。
それは簡単ではないかもしれません。イエス様は弟子たちに自分たちだけでその働きをするようにとは言いませんでした。
イスラエルの民に神様は自分たちだけでその働きをするようにとは言いませんでした。
よみがえられたイエス様が弟子たちと共におられ、弟子たちの上に聖霊の力が注がれました。イスラエルの民を神様は助け、戦いに勝利を与えられました。
私たちと共に、三位一体の神がおられます。マタイ28:20 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
私たちは人を恐れる必要はありません。私たちが恐れるべきは神様だけです。
この世から召し出された私たちは、礼拝を捧げ、神のみことばによって養われ、この世へと出て行く。 来て、そして行く。 このサイクルが一週間でなされ、教会生活でなされ、
人生でなされていくのです。
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