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5月24日(日) ペンテコステ礼拝
使徒の働き2:1−12 「いったいこれはどうしたことか」
2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、
驚きあきれてしまった。
2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。
2:8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。
2:9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで
神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
2:12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言った。
今日はペンテコステです。聖霊が注がれたことを覚える日です。
1)聖霊の注ぎを受ける準備
1節 みなが一つ所に集まっていた。
ペテロたちは祈りに専念していました。それは大きな世界宣教という使命(使徒1:8)がイエス・キリストから与えられていたからです。とても自分たちの力で成し遂げることはできない。
だからイエス様がおっしゃっていた聖霊様を祈って待ち望んでいました。みな心を合わせ、祈りに専念していました(使徒1:14)。
しばらく何も起こりませんでした。9日間一生懸命に祈ったけれども何も起こらなかったのです。失望して祈りをやめたくなってしまう気持ちが出てきたかもしれません。
しかし、彼らは心を一つにして、あきらめないで祈り続けました。私たちも実際的にも、霊的にも彼らのように一つになることが大切です。
2)聖霊の訪れ=ペンテコステ
2節 祈り始めて10日目に突然、聖霊が注がれました。聖霊様が激しく訪れたのです。その時、いくつかのしるしが伴いました。
@天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らの家全体に響き渡った。
1993年の全日本甲子園リバイバルミッションの準備の証し。
A炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
イエス・キリストの十字架の血が火に先行します。犠牲の血、犠牲の捧げ物が先行します。
旧約の祭壇でもそうでした。動物の血が神に捧げられ、神の応答として天から火が下って来ました。
炎は冷たい心、冷めた霊、なまぬるい信仰生活を燃やします。世界に対して、日本に対して、北海道に対して、余市に対して、イエス様に対して、自分の信仰成長に対して情熱が与えられます。
また炎は私たちの内側の不純物を取り除き、私たちを精錬する働きがあります。
B舌=異言
御霊が話させてくださるとおりに、他国の言葉で話しだした。新しい言葉が与えられました。
3)人々の反応
6節 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。
彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
12節 人々はみな、驚き惑って、互いに「これはいったいどうしたことか」と言った。
「これはいったいどうしたことか」と自分が驚く、教会が驚く、地域の人たちが驚く何かが起こる必要があります。何も起こらないというのは、全然良いことではありません。
何かが起こる必要があります。聖霊の注ぎが必要です。それは「祈り」から始まります。
聖霊様を待ち望むことが最優先事項です。教会共同体を建て上げることは人間の努力ではできません、聖霊の注ぎからすべてが始まることを絶対に忘れてはいけません。
私たちには教会共同体(使徒2:41−47)のビジョンがあります。これは人間の力ではできません。私たちにはペンテコステが必要です(使徒2:1−4)。
ペンテコステを体験するためには祈り(使徒1:14)が必要です。
権勢によらず、能力によらず、神の霊によって。ここに大きな可能性があります。誰にでも、どの教会にも、大きな可能性があります。
弟子たちはイエス様を失いました。彼らはイエス様のおことばを信頼して、くじけず、あきらめず、祈り続け、聖霊を求めました。そして聖霊様を受けたのです。
その結果、彼らは、イエス様の働きを継続していくことができたのです。
私たちもそうです。働きに困難を感じるからこそ、神の助けを求めます。祈り、聖霊を求めます。
聖霊の注ぎがあってはじめて、ビジョンで掲げた使徒2章の教会へとつながっていきます。それは決して人間の力ではできません。だからこそ聖霊の満たしが必要です。ここに希望があります。
私たちは神様のために何かをしたいと願いますが、そのためには他に何がなくても絶対的に聖霊の満たしが必要です。イエス様でさえ必要でした。であるなら私たちはなおさらです。
聖霊が注がれるなら、私たちが想像もしていなかったような神様の超自然的なみわざを体験できることができます。そこに希望があります。聖霊様を祈り求めていきましょう。
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5月17日(日)
マタイの福音書19:1−20:16 「先の者があとに、あとの者が先に」
19:1 イエスはこの話を終えると、ガリラヤを去って、ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に行かれた。
19:2 すると、大ぜいの群衆がついて来たので、そこで彼らをおいやしになった。
19:3 パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」
19:4 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、
19:5 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。
19:6
それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
19:8 イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。
19:9 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」
19:10 弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」
19:11 しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。
19:12 というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」
19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」
19:15 そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。
19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
19:18 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。
19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
19:25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
19:27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」
19:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
20:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
20:10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
20:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
@1−12節
1−2節
場所:ガリラヤ⇒ユダヤ地方
イエス様たちはガリラヤを去りました。ここでの仕事をすべて終えたのです。ガリラヤへ戻ってくるのは復活後です。
3−12節 離婚について
3節 パリサイ人の質問 「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」と
4−6節 イエス様の答え 「神は本来、創造の秩序の中で離婚というものを想定していなかった」
7節 パリサイ人の質問 「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」
8−9節 イエス様の答え 「確かにモーセは離婚を許可したが、これは理想が実現できなくなった現実における譲歩である。
10節 弟子たちの驚き。結婚の拘束力に驚いた。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」
11−12節 イエス様の答え 「誰もができるわけではない。」
A13−15節
子供たちこそ天の御国にふさわしい。
B16−30節、20:1−16
16節 ある人が最も大切な質問をしました。永遠のいのちを得たいと願ったのです。
私たち人間は生の中にいるようで、死の中にいます。人間は必ず死ぬ存在です。
この人は死の問題に解決を得るために、永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたら良いでしょうか、と質問したのです。
彼は永遠のいのちを得るためには良い行いが必要であると考えていました。多くの日本人もそうかもしれません。
17−19節 イエス様の答え 「いのちを得るためには戒め(十戒)を守りなさい。」
20節 彼の発言「そのようなことはみな、守っております。」
彼は本当に守っていたのでしょうか。もしかしたら外見上は守っていたのかもしれません。しかし、それは間違いで、実は守れていなかったのです。
誰一人戒めを完全に守ることはできないからです。彼は自分の真の姿に気が付くことができませんでした。それが彼の問題でした。
その結果、永遠のいのちから自分を遠ざけることになりました。
21−26節 イエス様の言葉 「金持ちが天の御国に入るのは難しい。」
お金が悪いわけではありません。神よりも金を重んじるのが悪い、ということです。
富(お金)は人をこの世(地上)に縛りつけ、天から引き離します。
地上に多くのものを持っている者は、神を必要と感じなくなる危険性が高まります。
逆に地上にわずかしか持たない者は、他に頼るものがないので神に頼る可能性が高まります。
金持ちが救われないということではありません。金持ちも救われることは可能です。ただ難しいということです。
27−29節 永遠のいのちを得るために必要なのは、良い行いではなく(戒めを完全に守れれば確かにそうなのですが、誰一人守ることはできません。
神の基準に到達できることはできません)、イエスの名を信じることです。
ペテロは、「自分たちはこの金持ちほどのお金やいろいろなものを持っていませんが、私たちなりにすべてを捨てて捧げて、イエス様に従ってきました」
と言い、報酬を求めました。
イエス様は12使徒が12部族を裁くようになること、永遠のいのちを受け継ぐことを約束しました。
30節 でもこのように付け足します。「ただ先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」
イエス様は、「先の者があとになり、あとの者が先になること」についてたとえを話されます。
20:1−16 たとえの内容
午前6時〜午後6時の間に人々は様々な時間帯から労働をした。半日びっしり働いた人もたった1時間しか働かなかった人も何と同じ金額だった。
それも後から働いた人の方から労賃をもらったのだ。
8節 人生の精算の時がきます。
午後6時に人生は終わりを迎えます。その時間、すなわち死が来たら、裁きが来たら、もう雇ってもらうことはできません。働くことはできません。
救われることはできません。
午前9時頃、青年期に救われる人がいるかもしれません。12時頃、中年期に救われる人がいるかもしれません。
午後3時頃、50−60代で救われる人がいるかもしれません。午後5時頃、70−80代で救われる人がいるでしょう。
老年になって救われた人の報いは約束通り天国です。ぶどう園で働く、すなわち神様を信じ、神に仕えた期間は短いです。
でも報酬は天国です。
11節 早朝から働いた人たちは文句を言いました。気持ちは分かります。私たちは暑い時間帯も辛抱して働きました。でも彼らは
たった1時間、それも涼しい時間帯に働いただけはないか。
このようなことを余市カナン農場で実践することは難しいでしょう。
さて私たちに当てはめたらどうなるでしょうか。報酬が同じなら、老年になって死ぬ間際にイエス様を信じましょう。老年になってから
神に仕えましょう、ということになるでしょうか。
私たちは長い時間ぶどう園で働きました、神様に仕え、大変なことがたくさんありました。
私たちも確かに天国という報酬であると言われましたが、あの短い期間しか神に仕えなかった人と同じ報いであるのは公平ではない、と
言いたくなることがあるのかもしれません。
16節 「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
これは大きな文脈で言えば、ユダヤ人と異邦人の関係がそうです。
またペテロに対する答えとも言えます。あなたよりは先にいた12部族を治めることになる、でも後からパウロに先を行かれることになる、
というように。
ではあとの者が先になるから、後の方が楽だから、後の方が幸せで、後の方を積極的に選ぶべきでしょうか。
果たしてそうなのでしょうか。
私は違うような気がします。たとえ報酬が同じでもよいではないか、たくさんの人が天国に入れることは素晴らしいではないか、
ぶどう園のために、収穫のために、神の国のために長く多く働き、ぶどう園の前進と祝福のために働ける方が幸いではないだろうか。
報酬のためではない。ぶどう園の発展のためです。神の国の役に立つためです。
<まとめ>
16節 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。
もしかしたら、先に救われたのに、後から救われた人に知識や信仰において、品性や奉仕において、抜かれたように感じることが
あるかもしれません。これからそのようなことが起こるかもしれません。
14節 イエス様の答えは、「自分の分を取って帰りなさい。」です。自分の分で満足することです。
他の人と比べないで、雇ってくださった、声をかけてくださった、ぶどう園の主人のため、すなわち神のために一生懸命に
働くことです。
自分なりに全力を尽くして働き、他の人と比べないで、報酬は神にゆだねましょう。
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5月10日(日)
マタイの福音書18:15−35 「教会共同体に属する者がいかに歩むべきか パート2」
18:15
また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
18:16
もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
18:17
それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
18:18
まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天に
おいても解かれているのです。
18:19
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、
それをかなえてくださいます。
18:20
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
18:21
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
18:22
イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
18:23
このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24
清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
18:25
しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26
それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。
18:27
しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
18:28
ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
18:29
彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
18:30
しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
18:31
彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32
そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33
私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34
こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35
あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
これは、イエス様が建てると宣言された教会を守るために与えられた教えです。
いつもは3つのアウトラインで説教していますが、今日は2つのポイントに絞りたいと思います。罪の指摘(罪の悔い改め)と罪の赦しです。
罪に対する毅然とした態度と罪を無限に赦す姿勢の両方が教会共同体には必要です。ここに神の義と神の愛を見ることができます。
@15−20節 罪の指摘=神の義
15節 これは実際の家族ではなく、霊的な家族のこと。すなわち教会共同体のメンバー。
罪を見て見ぬふりをしてはいけません。誰かが罪を犯したなら、罪を指摘し、悔い改めに導くことが必要になってきます。
しかし、いきなり公の場で指摘してはいけません。それでは相手に恥をかかせることになります。相手の名誉を守ってあげなければなりません。
まずは1対1で話し合うようにイエス様は教えておられます。
16節 忠告を受けた人には、2つの反応があります。
受け入れる場合。すなわち悔い改めた場合。 15節後半 和解することができます。
拒絶された場合。1対1の第1段階から第2段階に進むことになります。他にひとりかふたりの証人を連れて行くわけです。
証人を連れて行くのは、事実の確認のためですが、あくまで悔い改めと和解に導くことが目的です。
基本的に旧約聖書では罪を犯した人を共同体から排除するのが主眼点でしたが、新約聖書では罪を犯した人を共同体へ回復させることが主眼点になっています。
17節 今までは私的な話し合いでしたが、これでもうまくいかない場合は、第3段階(最終段階)に進みます。
ここではじめて、教会という公の場所に持ち出されます。
教会という人はいないので、まずは教職者や役員会などが当てはまると思います。
これでもダメなら、残念ながら除名、もはや共同体のメンバーとは見なさない、ということになってしまいます。
ただあくまで回復と和解を目的としていることを忘れてはいけません。
18節 教会の決定は神の意志を反映していることを強調しています。
人間の集まりである教会に問題があることも事実ですが、神の御心を実現させるのは教会であることをイエス様は教えています。
私たちが作成した教会規約なども神は用いてくださるということですね。
19−20節 祈りがテーマになっていますが、この箇所を独立させるよりも、15−18節の流れの中で、すなわち文脈の中で読み理解するべきでしょう。
思います。そこにイエス様がいてくださいます。
A21−35節 罪の赦し=神の愛
21節 ユダヤ教の教えでは、3度までは赦されるが4度目からは赦されない、というものがありました。
そのような意味で7度というのは高い基準で寛容さを示しているのではないかとペテロは考えたのではないでしょうか。
場合によってはイエス様に褒めていただけると期待したかもしれません。
22節 しかし、イエス様は更に高い生き方を要求しました。
7度を70倍するまで赦しなさい これは491回目は赦さなくて良いということではなく無限に赦しなさい、ということですね。
23節 イエス様は例え話をします。
多くの人々は清算が来るまで、自分の罪のことなど気にしません。清算とは、死や裁きの時。
24−27節
24節 1タラント=6千デナリ 当時の1デナリ=労働者1日分の給与 1年の給与=365デナリ
6000÷365=16年=1タラント 16年×1万(タラント)=16万年分の給与
25節 すべてを売っても返却できないほどの莫大な借金。
27節 主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を全部免除してくださった。 私たちに対する神の愛が無限であることを示しています。
28−30節
28節 自分は絶対に返すことのできない借金をすべて免除されたのに、仲間に貸していた百デナリ=100日分の給与を返すように
相手の首を絞めて要求します。
29節 仲間は助けを求めます。先ほど彼が主人にしたように。
30節 しかし、彼は赦さず、仲間を牢に投げ入れたのです。
31−34節
32節 主人はしもべに言います。「悪いやつだ」
33節 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではなかったか。
34節 そして、彼を牢獄に入れてしまいました。しもべが仲間にしたように彼は主人にされたのです。
35節 結論
一万タラントの借金=私たちが犯した罪 返済不可能
百デナリの借金=他人から受けた罪 赦しなさい
福音に応答しない者は、律法にゆだねられてしまいます。自分で自分の罪を返済しなさい、と。しかし、絶対に返済できないほどの罪なわけです。
牢獄に入れられてしまいます。(律法を完全に守れる人は誰一人いないので、罪人と認定され、罰を受けることになります。)
しかし福音に応答する者は、イエス・キリストが代わりにすべてを返済してくださいます。借金という罪はすべて免除され赦されます。
私があなたを赦したように、あなたも兄弟を赦しなさい、というのがイエス様の教えです。人を赦さないと神から赦されない、と言われます。
山上の説教の「主の祈り」(マタイ6:12−15)でもこのことを教えておられました。
人を赦さないと、私たちは不幸になってしまいます。体と心が病んでいきます。それは神の御心ではありません。
※私たちはひどいことを言われされた場合、憎しみを抱いて、赦すことが非常に難しいのですが、他の人を赦す唯一の方法は、自分の罪の大きさに気づく
ことだと思います。その時にはじめて神からの赦しがあまりに驚くべきことであることが分かるようになります。
その赦されるという恵みを通して、私たちは他の人の罪を赦せるのだと思います。
大きなチャレンジですが、この赦しの原則は、私たちの心と人生を健康にし、何より教会共同体を健康にします。
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5月3日(日) 聖餐式
マタイの福音書17:22−18:14 「教会共同体に属している者がいかに歩むべきか」
17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。
17:23 そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。
17:24 また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」
17:25 彼は「納めます。」と言って、家にはいると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。
自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」
17:26 ペテロが「ほかの人たちからです。」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。
17:27 しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、
わたしとあなたとの分として納めなさい。」
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
18:5 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。
18:6 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
18:7 つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。
18:8 もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に
投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
18:9 また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに
投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
18:10 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におら
れるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
18:11 〔人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。〕
18:12 あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜し
に出かけないでしょうか。
18:13 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
18:14 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
マタイ18章はイエス様のまとまった説教になっています。マタイの福音書には5つのまとまった説教が書き記されていますが、18章は4つ目になります。
1つ目は5−7章の山上の説教です。
18章の説教では、御国の民(クリスチャン)が教会共同体に所属する者としてどのように歩んだら良いのか、ということがテーマになっています。
今日は18:1−14を中心に語りたいと思いますが、まず17:22−27をみましょう。
<序論>
☆17:22−23
場所:ヘルモン山(イエス様の変貌)→ガリラヤ地方
再度の受難予告
最初の予告 16:21
弟子たちは非常に悲しんだ。最初と違いこの時はペテロは何も言いませんでした。
☆17:24−27 税金(宮の納入金)の問題
場所:カペナウム
24節 納税問題がカペナウムで起こったことは、イエス様が住んでいた場所がカペナウムであったことを示していると思います。
25節 集金する人にペテロが「私たちの先生(イエス様)は納めます」と答えました。
25−26節 イエス様の論理が展開します。
自分(イエス)は神の国の王子である。
12歳の時、宮にいましたが、探していた両親に対して、なぜ私が「自分の父の家」にいることが分からなかったのですか、と言いました(ルカ2:49)。
本来王子である私は父の宮のためにお金を払う必要はない。
人をつまずかせないために、不必要な問題を起こすよりは、社会の慣習に従ったのです。
<本論>
@18:1−5
1節 弟子たちには、自分たちの中で誰が一番偉いのかということに特に関心がありました。3人だけが山へ連れて行かれたことが引き金になったのかもしれません。
今自分は12人の中でどの位置にいるのか、イエス様が王様になった時に自分はどのポストにつけるのか、ということが彼らの一番の関心事だったのでしょう。
2−3節 イエス様は弟子たちの考えがこの世の価値観であって天の御国の価値観ではないことを指摘されます。
人が自分を重要人物であると考えている間は、天国に背を向けていることになる。方向転換をしなければならない。
偉さ(高さ)を考えることから低さを考えることに変わらなければならない。
そもそも天の御国に入ることを前提にしているが、悔い改めて子供のようにならなければ天の御国に入れないと言われました。
4節 そしてその前提を示された上で、弟子たちの質問に答えます。
この子供たちのように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。すなわち謙遜な者が一番偉い、と言われたのです。
子供の中に神の国の特質を見ることができます。
子供とは誰か(特に親)の助けを必要とする存在です。自分だけでは生きていけません。すなわち低い状態にあります。
一方、大人は自分で何でもでき、他の人の助けを必要としない存在です。もっと言えば神を必要としない高慢に陥りやすい状態にあります。
子供のように自分を低くして、自分には助けが必要であることを理解すること、特に神の助けを必要とすることを自覚することが大切なのです。
究極的に低い状態になってくださったのがイエス様です。神が人となった受肉のそれを見ることができます。
ピリピ人への手紙2:6ー8
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも
従われたのです。
A18:6−10
6ー
わたしを信じる小さい者たち=救われたばかりの者たちをつまずかせてはいけない。
つまずきは避けられない。そもそもイエス・キリストの十字架と復活がつまずきになっている。しかし、私たちはつまずきを与えないためといって
十字架と復活を除いてはいけない。そうしてしまうなら、たとえつまずきはなくなっても肝心の罪からの救いがなくなってしまいます。
福音を守りながら(福音そのものによるつまずきは仕方がないが)、できる限りのつまずきを回避しなければなりません。それはイエス様の納入金への
対処の仕方からも分かります。人々がイエス様と教会につまずかないように気をつけなければなりません。細心の注意を払わなくてはいけません。
8−9節 マタイ5:29−30に似ている。
自分がつまずかないために、人々をつまずかせないために、永遠を意識して生き、自分(手、足、目)をコントールしていく。
B11−14節
11節 人の子(イエス・キリスト)は、失われている者を救うために来たのです。
12−13節 無事な99匹の羊と迷子になっている1匹の羊が対比されています。ルカ15章にも出てきます。
ここで示されているのは、100分の1の羊ではなく、尊い1匹の羊。もし自分の大切な1匹のペットがいなくなったら必死で探すと思います。
14節 失われている者、教会から離れている者のひとりが滅びることは、天にいます父のみこころではありません。
ここにイエス様の十字架の愛を見ることができます。私たちは単に全人類70億分の1の存在ではない。神は私たちを1人の尊い人として見ていてくださいます。
これは奇跡的な神の愛です。私たちはそのような大きな神の愛を受けています。願わくは、私たちもそのような愛を持ちたいものです。
迷い出る者、失われるもの、教会から離れる人は残念ながら出ます。つまずきは起こります。それは避けられません。しかし、神はそのような一人でも
滅びることを望んでいないことを覚えましょう。神の心を理解しましょう。
ペテロの手紙第二 3:9
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束を遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるので
あって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
<まとめ>
私たちは教会共同体に属する者としていかに歩むべきでしょうか。
1.誰が一番偉いかということより、方向転換して考えを変え、自分を低くして、謙遜な歩みをしましょう。
2.人をつまずかせないように、人をイエス様と教会から遠ざけないように、細心の注意を払って気をつけましょう。
3.集合的な愛ではなく、個人的な愛を持って、失われている(迷い出ている)一人の人を捜し求めましょう。
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4月26日(日)
マタイの福音書17:1−21 「私たちに必要な信仰・祈り・断食」
17:1
それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2
そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
17:3
しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。
17:4
すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。
あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
17:5
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」
という声がした。
17:6
弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
17:7
すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。
17:8
それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。
17:9
彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられた。
17:10
そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」
17:11
イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。
17:12
しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。
人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」
17:13
そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。
17:14
彼らが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。
17:15
「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。
17:16
そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」
17:17
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。
いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
17:18
そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。
17:19
そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
17:20
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、
『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
17:21
〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」
@1−8節
1節 高い山=ヘルモン山 ピリポ・カイザリヤ(16:13)の北にある。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネは12弟子の中でも特別な弟子たちで、時々強烈な出来事に居合わせることがゆるされました。
例えば、12歳の少女の生き返りの場面(マルコ5:37)、ゲツセマネの祈りの場面(マタイ26:36−44)。
2節 イエス様の変貌。
3節 モーセとエリヤが現われ、イエス様と話し合います。
モーセは律法、エリヤは預言者の代表。
旧約を代表する二人が旧約を成就するイエス様と話し合った。
並行記事のルカの福音書9:30−31にはこのように記されています。
9:30 しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、
9:31 栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。
この時にイエス様は受難(十字架の死)を神の御心として決心することができたと思います。
受難の予告を聞いてショックを受け、落ち込んでいた弟子たちは、栄光のイエス様を見て励まされたに違いありません。
4節 ここでも口出ししたのはペテロ。後に手紙にこの時の出来事を記しています。
ペテロの手紙第二 1:16−18
1:16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。
この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
1:17 キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。
「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
1:18 私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。
5節 光り輝く雲=神の臨在を示す栄光の雲
雲の中から、天から、イエス様の洗礼の時と同じ御声(同じ内容)が聞こえてきました。
私たちは変貌と言いますが、でも実はこのお姿が本来の姿であり、受肉(神から人間になられた)の姿が変貌の姿と言えます。
ペテロが幕屋を造ります、と言ったのは、ここにもっと留まりたいと思ったからではないでしょうか。
私たちも礼拝や聖会に神の臨在があると、もっと神様を礼拝していたい、ここにとどまり続けたいと思うことがあります。
でも私たちは神の臨在にずっとひたり続けるだけではいけません、教会堂だけにずっと留まり続ける訳にはいきません。
イエス様と弟子たちには使命がありました。それは十字架への道です。福音宣教の働きです。
私たちも神の臨在と礼拝からスタートすることはとても大切ですが、それが終わりではありません。
礼拝から、神の臨在から始まり、それぞれの十字架を負って前に進まなければなりません。
福音宣教の働きを進めていかなければならないのです。山から丘から下へ降りていかなければなりません。
A9−13節
エリヤは立て直すために来る、でも実はエリヤはもうすでに来た。=バプテスマのヨハネ。 彼は好き勝手なことをされた=殺された。
ここまで弟子たちは理解できた。しかし、イエス様がバプテスマのヨハネのように苦しめられ、殺されるということはまだ理解できなかった。
B14−21節
ここでの出来事は1−8節のイエス様の変貌とは対照的。
1−8節では神の栄光がありましたが、ここでは混乱があります。残された9人の弟子たちは右往左往している。
14−15節 息子を助けて欲しいという父親の願い。彼の息子は悪霊によって病にかかっていた。
16節 9人の弟子たちには直すことができなかった。問題を解決することができなかった。
17節 イエス様は弟子たちの不信仰を責められた。
18節 イエス様が直した。
山から下りると、現実的で実際的な問題が待っていました。私たちもそうです。礼拝の時には何も問題はありません。神の平安、神の御声だけがあります。
しかし、礼拝から帰ると現実と問題に直面します。でもそれでいいのです。
神の御声の後には、「あわれんでください、助けてください」という人の声が聞こえてくるものです。
19節 なぜ自分たちには悪霊を追い出し、癒やすことができなかったのですか? と弟子たちは聞きました。
20節 イエス様の単純明快な答え。私たちもあまり聞きたくない言葉。「信仰が薄いから。」
私たちは、自分に与えられている信仰を働かせなければなりません。でも信仰は気合いでは強められることはありません。
ではどうしたら良いのでしょうか。
パウロは書いています。
ローマ人への手紙10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
信仰は聖書の言葉を聞くことから始まります。ですから聖書(創世記から黙示録まで)を読んで神様に私たちの信仰を強めていただきましょう。
そして祈りと断食が続きます。
信仰と祈りは切り離すことはできません。信仰のない祈りは神に届きません。
でも聖書を読んで信仰が与えられると、その信仰が祈りとなって声で言い表されます。
その信仰の祈りは神に届き、何かが動き始めます。すなわち山(困難、問題)が動きます。
断食によって、私たちの肉は弱められ、私たちの霊が強められます。
私たちは一日3度食事をすると思いますが、断食をするなら、その食事の時間を祈りの時間とすることができます。
これならどんなに忙しい人でも祈ることができます。
<まとめ>
御言葉によって信仰が強められ、信仰に満たされます。
祈りと断食によって、聖霊に満たされます。
山から(カナンの丘から、礼拝から)下り、現実社会で働きをするために必要なものは3つあります。
信仰、祈り、断食です。この3つが合わさる時に、私たちクリスチャンと教会は、真の力強い働きをすることができます。
人々の叫びや願いに対して、私たちの信仰が強められることを通して、イエス様のように問題を解決することができるように、
神様に願い求めていきましょう 。
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4月19日(日)
<序論>
昨日はお疲れさまでした。津軽三味線コンサートに43名(ノンクリスチャンが33名)が集まってくださったことを心から感謝します。
教会堂の中に入っていただけたこと、また十字架の福音を伝えることができたことを嬉しく思います。
昨日来られた方々の上に神様の祝福が豊かにありますように、これからもお祈りしていきましょう。
<本論>
マタイの福音書16:17−28 「教会を建てて下さる(建物のことではなく、力強く前進発展する教会という意味)イエス・キリスト」
それは天においても解かれています。」
ならないことを弟子たちに示し始められた。
@17−20節
あなたの信仰告白「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(16節)は立派です。
そのように告白できたのは、親から受けた教育や自分の判断によるものではなく、神の啓示と恵みによるものです、と言われたわけです。
私たちももしかしたら自分たち自身の信仰で神様を信じ、イエス様を救い主と信じたと思っているかもしれませんが、でも実はそうではなく、
神様の一方的な恵みによるものであることを覚え感謝をささげましょう。
イエス様を自分の救い主と信じ、告白できることは本当に幸いなことです。神様の豊かな祝福です。
18節 イエス様は続けて言いました。「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれに打ち勝てません。」
岩とはペテロの信仰告白であり、生ける神の御子イエス・キリストご自身です。教会を建ててくださるのはイエス・キリストご自身です。
そして教会はイエス・キリストの教会です。
余市カナンの丘キリスト教会はイエス・キリストの教会であり、このカナン教会を建ててくださるのはイエス・キリストご自身です。
私たちも教会を建て上げることに努力をするわけですが、教会を建て上げることに一番関心があるのはイエス様ご自身であることを覚える時に本当に励まされます。
教会とは、イエスをキリスト(救い主)と信仰告白する者たちの集まりです。もしかすると小さく弱そうに見えるかもしれません。しかし、イエス様は言われます。
「ハデスの門もそれ(教会)には打ち勝てません。」 地獄や悪魔の力も教会を倒し滅ぼすことはできません。なぜでしょうか。
それはイエス・キリストが教会の土台であり、悪魔よりもはるかに力あるお方イエス・キリストが教会を建てると約束しているからです! ハレルヤ!
19節 続けてイエス様は言われます。「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、
あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
教会に(クリスチャンに)天の御国の鍵を上げますと言われるのです。
鍵があると家に入ることができます。しかし、鍵がないと家に入ることはできません。
イエス様は私たち教会に天の家に入る鍵を上げよう、その鍵を使って天に入り、天にある祝福を受け取りなさい、と言われるのです。
様々な要素があるかもしれませんが、2つの点を話したいと思います。
一つ目は福音の扉を開く鍵です。ペテロたちはこの鍵を用いて福音の扉を開いていきました。
まずユダヤ人への扉を開き、次にサマリヤ人への扉を開き、最後に異邦人への扉を開いていきました。
昨日のコンサートに初めて仁木町の方が3人来られたことは本当に感謝でした。仁木への扉が開かれました。
残念ながら赤井川、古平、積丹からは誰も来られませんでしたが、いつか来ることでしょう。伝道の鍵を用いていきましょう。
二つ目は祈りです。祈りという鍵を使って、天にある神様が用意しておられる祝福を受け取っていきましょう。
A21−23節
21節 受難予告 4:17〜のガリラヤ伝道が終了→エルサレムへ
22−23節 イエス様が受難を予告すると、ペテロはイエス様を引き寄せて、「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」といさめ始めました。
16節で素晴らしい告白をしてイエス様からほめられたペテロでしたから、この発言によって再びイエス様からお褒めの言葉を頂けると期待したかもしれません。
しかし、ペテロはイエス様から叱責されました。「あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
それだけではなく、「下がれ。サタン。」とまで言われてしまったのです。これは非常に厳しい言葉です。
サタンは神の計画を妨げ、十字架による人類救済の道を邪魔しました。時々、あるクリスチャンは神の計画を妨害するためにサタンに利用されることがあります。
私たちも気をつけなければなりません。サタンは私たちを十字架から遠ざけ、十字架を避けさせようとする思いを吹き込んできます。
B24−28節
24節 実際イエス様はこのように言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、
そしてわたしについて来なさい。」
弟子の道は、十字架の道です。自己中心ではなく神中心の生き方、自分が死に神に生きる道です。自己否定、神肯定の道。
25−26節 自我の死⇒真のいのち
27節 イエス様の再臨の時に、それぞれの行いに応じて、報いが与えられます。隠れていた思いや奉仕などが明らかにされます。
良くも悪くもその行いに応じて神から報いが与えられるのです。
<まとめ>
教会を建てて下さるのはイエス様です。このことをまず確信しましょう。しかし、私たちにできることもあるはずです。
教会を建ててくださるイエス様に協力し、またお互いに協力し、教会(余市カナンの丘キリスト教会)を建て上げていきましょう。
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4月12日(日)
久しぶりですが、マタイの福音書に戻りたいと思います。
マタイの福音書16:1−16 「あなたは、イエスを誰だと言いますか」
16:1 パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。
16:2 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、
16:3 朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。
16:4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。
16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。
16:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」
16:7 すると、彼らは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ。」と言って、議論を始めた。
16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。
16:9 まだわからないのですか。覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
@1−4節
1節 パリサイ人とサドカイ人の主張は全く違っていましたが(例えばパリサイ人は体のよみがえりを信じていましたが、サドカイ人は
体のよみがえりを信じていませんでした)、イエス様を滅ぼそうとするために一致団結しました。そして彼らは天からのしるしを求めました。
おそらくモーセがシナイ山で出会った雷のようなものを求めたのでしょう(出エジプト記19:16−19)。
でも彼らの本当の意図はしるしを見ることではなくて、イエス様を試みることにありました。彼らはいつもそうでした。
2−3節 彼らは目に見えるしるしを求めて、霊的なしるし(目に見えないしるし)を求めようとはしませんでした。
なぜ時のしるしを見分けることができないのですか、とは、なぜあなたがたはメシヤがすでに来ているのに分からないのですか、という意味でしょう。
私たちも時のしるしを見分ける必要があります。今は終わりの時代です。今はイエス様の再臨が近づいている時です。
4節 イエス様の答え「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」
ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めました。ヨナのしるしとは、ヨナ自身と、彼が語った神からの言葉でした。
イエス様は、ご自身の説教で人々が悔い改めることを望んでいました。また今でも望んでいます。福音のメッセージがしるしなのです。
この世の人々もパリサイ人たちのようにしるしを求めるかもしれません。
しるしと不思議も大切だと思いますが、絶対に忘れていけないのは、一番のしるしは福音のメッセージであるということです。
もっと言えばイエス・キリストご自身です。
イエス様は彼らに「あなたがたは見る目があれば見ることができるのに、あなたがたは見ようとしない」と言われました。
A5−12節
6節「パリサイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」
8−9節 「信仰の薄い人たち。まだわからないのですか」
12節 弟子たちは、イエス様が気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、彼らの教えであることをようやく悟ることができました。
ルカの福音書12:1 「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。」
現代におけるパン種はいろいろあると思いますが、神を排除したヒューマニズム(人間中心主義)が代表的なものではないでしょうか。
B13−16節
場所:ピリポ・カイザリヤ
「人々は人の子をだれだと言っていますか」
バプテスマのヨハネのよみがえりと思ったのは、ヘロデ・アンティパスだけではありませんでした。14:2
エリヤ:ユダヤ人はメシヤが来る前にエリヤが戻って来ると信じていました。マラキ4章の成就。
エレミヤだとか預言者のひとりだと言う人もいました。
人々は、彼らなりに賛辞をおくり、イエス様を尊敬していたことが分かります。
ちょうど現代人のある人々がイエス様のことを「彼は偉大な道徳教師の一人だ」というようなものだったのかもしれません。
そして今度は弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねました。
これまでは質問が他人ごとでしたが、今回は自分のこととして聞かれました。弟子たちの間に緊張が走ったに違いありません。
想像してみてください。
彼らは心の中で考えたでしょう。誰が答えるのか。自分が答えようか。どのように言おうか、など。
しばらく沈黙があったと想像します。そのような時ってありますよね。シーンとするわけです。沈黙を破ったのは誰でしょうか。
またもやペテロでした。
ペテロはとんちんかんなことを言いませんでした。
彼は「あなたは、生ける神の御子キリストです」と、本当に素晴らしい歴史に残る信仰告白をしました。
預言者マラキ以来、約400年間、預言者の声がありませんでした。そこにイエス様が登場したわけです。
人々の評価はある意味人間的に言えば最高級の評価と言ってよいものでした。しかし、イエス様はそれ以上の存在でした。
その真理をペテロは悟り、告白することができたのです。
「あなたは死んでいる神々(偶像)ではありません。あなたは生ける神です。あなたは父なる神から遣わされた神の御子です。あなたはキリスト=救い主です。」
と大胆に告白しました。
イエス様は個人的な判断を要求されます。他の人々がイエス様をどのように評価するかは実はあまり重要ではありません。
大事なことは、「あなたが(私)」がイエス様をどのように評価するかなのです。
イエス様は私たち一人ひとりに今日問いかけています。「あなたは、わたし(イエス)を誰だと言いますか。」
ペテロのように「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白することができるならば、本当に幸いです。
これ以上の幸いはありません。
それは神の一方的な恵みによります。そのように告白できることを神様に感謝して一週間を過ごしていきましょう。
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4月5日(日) イースター礼拝
<序論>
久しぶりに説教します。3月15日は私がイスラエル旅行のために礼拝をお休みさせていただきました。
そして3月22日の礼拝はイスラエル旅行の報告、3月29日はノルウェーから来られたハンス・レイテ先生が説教をしてくださいました
。
今日は復活祭ですね。一般的にはクリスマスの方が有名かもしれませんが、イースターの方がキリスト教信仰にとって大切であり、重要であると言えます。
クリスマスのイエス様は、赤ん坊で、弱々しいかもしれません。十字架で死なれたイエス様もある意味で弱々しいです。
しかしよみがえられたイエス・キリストは本当に力強いです。
キリストの復活こそ、そのご生涯におけるハイライト、最も素晴らしい出来事だといえます。
もしイエス様が墓の中で死んだままだったら、新約聖書が書かれることも、キリスト教が全世界に広まることも決してありませんでした。
よみがえられたからこそ、新約聖書は書かれました。その聖書を開いていきましょう。
<本論>
ルカの福音書24:1−12 「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」
24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
24:2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
24:3 はいって見ると、主イエスのからだはなかった。
24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
24:5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。
24:9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
24:10 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
24:11 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。
24:12 〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕
説教タイトルは5節の天使の言葉からとりました。 「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」
おそらく墓の前にある石のことを心配して、誰があの石をどかしてくれるだろうかと思いながら、墓へ向かったことでしょう。
しかし、驚くべきことに、墓の前にあるはずの大きな石がわきに転がしてあったのです。
神様がすでに彼女たちの心配を取り除いていました。そして彼女たちは墓の中に入りました。
3節 入って見ると、主イエスのからだはなかった。
アメリカのある教会の話です。日曜学校のクラスの中でフィリップという知的障害児がいました。フィリップはいつも明るい少年でした。
フィリップは聖書の話が大好きでした。彼はイエス様の話を聞くといつも笑顔で聞いていました。
イースターの次の日曜日に、教会学校の先生たちは子供たちに卵型のケースを渡して、子供たちに外に行って、「命」を表わすものを探して、
それをケースに入れて持ってくるように言いました。子供たちは15−20分間、外でいろいろなものを箱に入れて持ってきました。
ある子供は、ケースの中にお花を入れて持ってきました。またある子供は、ケースの中に小さな虫を入れて持ってきました。
しかし、フィリップのケースの中には、何も入っていませんでした。皆はフィリップをバカにしました。
「何だよ、何も入っていないじゃん、ちゃんとまじめにやれよー。」
するとフィリップは言いました。「僕はちゃんとやったんだよ。空なんだ。お墓は空なんだよ。イエス様は復活したんだ!」
教室は静まり返りました。まさにこの空のケースがいのちを最も力強く表わしていたのです。
5−6節
エルサレムには、イエス様が葬られたとされているお墓(園の墓)があります。私も先日イスラエル旅行で行って来ました。
墓の入口に、一つの言葉が記されていました。「彼はここにはおられません。彼はよみがえられたのです。」
何という感動的な言葉でしょうか。その墓は今もからでした。からであるからこそ、希望と命があります。
もしも、「これがイエス様の骨です」なんていうものがあったら大変です。失望してしまいます。
今日もいろいろなものがキリストを墓の中に閉じ込めておこうとします。人々は何とか、イエス・キリストを死人の中で探そうとしているのです。
でも、私たちも時々、イエス様を生きておられる方としてではなく、死んでいる方として、墓の中で探すという愚かなことをしているのではないでしょうか。
毎日の生活で、あなたはイエス様を今も生きておられるお方として信じていますか?
朝起きた時に、よみがえられたイエス様が共にいてくださることに興奮していますか?
今日一日どんなに素晴らしいことが起こるんだろうか、と。
もしそうでないなら、恐らく私たちはイエス様をお墓の中に捜しているのではないでしょうか。
また教会に来る時に、よみがえられたイエス様がいらっしゃるゆえに、神様に期待していますか? どんなみわざを神様はしてくださるのだろうか、と。
もし期待していないのなら、ただ何となく来ているのなら、恐らく私たちはイエス様を死人の中で捜しているのです。
女性たちは、イエス様の遺体に香料を塗ろうと思って墓に出かけました。
墓の中を一生懸命探している限り、よみがえられたイエス様に出会うことはできないでしょう。
イエス・キリストはよみがえられました! イエス・キリストを墓の中に捜すのは、死人の中に捜すのはやめましょう。
よみがえられたキリストが「墓におられない」ならどこにおられるのでしょうか。今私たちと共におられます。
よみがえられたイエス様はマタイの福音書28:20で弟子たちにこのように言っています。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 この約束は、現在を生きる私たちにとっても真実です。
7−8節 女たちはイエスのみことばを思い出した。
イエス様のみことばを思い出すことは非常に大切です。決定的に大事であり、これがクリスチャン生活の分かれ目なのです。
勝利できるか、敗北するか。いのちに歩むか死に歩むか。
彼女たちはイエス様の死を確かに目撃しました。そしてイエス様が墓に葬られる様子もしっかり見ました。
ですからこの女性たちを支配していたのは、「死」だったのです。しかし、天使のことばを聞き、イエス様のみことばを思い出しました。
それはいのちのみことばです。
よみがえりのニュース、逆転のメッセージです。そのみことばを思い出しました。それが勝利の秘訣でした。
みことばを思い出すことによって死と決別し、過去と決別できたのです。
しかし、みことばを思い出せない人は、敗北してしまいます。なぜでしょうか?
いつまでも死と過去に縛られて生きるからです。
あなたはどちらに属するでしょうか? いのちですか、それとも死ですか?
9節 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
女性たちは、みことばを思い出しました。その後すぐ、どうしたでしょうか?
彼女たちは、よみがえられたイエス・キリストを使徒たちや他の人たちに報告した、伝えたのです。
10−11節
使徒たちは彼女たちを信用でせず、信じませんでした。しかし、使徒たちは、後に彼女たちの証言が真実であったことを体験します。
私たちの場合もそうかもしれません。私たちが伝える時に人々は最初は信用しないかもしれません。
しかし、必ず信じる人が起こされます。
ですから、大事なことは、とにかく周りの人々にイエス様の復活を報告する(伝える)ことです。
12節 しかしペテロは立ち上がると走って墓へ行き、
皆さんが話す時に、多くの人々は信用しないかもしれません。
しかし、ある人は興味を持ち、立ち上がって、教会へ来て、のぞき込み、そして驚くことになるでしょう。
よみがえられたイエス様と出会うからです。
イエス様は死を打ち破り、よみがえられました! ですから、生きておられる方を墓の中に、死人の中に捜すのはやめましょう。
主イエス様が、私たちと世の終わりまでも共にいらっしゃることを覚えて歩み、復活の証人となっていきましょう。
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2015年3月8日(日)
「主よ。私をあわれんでください」 <マタイ15:21−39>
15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
15:22
すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。
娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
15:23
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。
叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
15:24
しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
15:25
しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
15:26
すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
15:27
しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
15:28
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
15:29
それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。
15:30
すると、大ぜいの人の群れが、足なえ、不具者、盲人、おしの人、そのほかたくさんの人をみもとに連れて来た。
そして、彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをおいやしになった。
15:31
それで、群衆は、おしがものを言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て、驚いた。
そして、彼らはイスラエルの神をあがめた。
15:32
イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。
彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」
15:33
そこで弟子たちは言った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手にはいるでしょう。」
15:34
すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」
15:35
すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。
15:36
それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。
15:37
人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあった。
15:38
食べた者は、女と子どもを除いて、男四千人であった。
15:39
それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。
最初に29−31節、32−39節を簡単に見て、21−28節に特に注目したいと思います。
@29−31節
イエス様は彼らをいやされました。
群衆は驚き、イスラエルの神をあがめました。
A32−39節 4千人の給食
34節 七つのパンと少しの魚 14章の五つのパンと二匹の魚の出来事と似ています。
イエス様は彼らを養われました。
人々の病を気にかけ癒し健康を与えること、また人々の必要を満たすために食物を供給すること、これらを実践することはイエス様の働きを継続していることになります。
B21−28節
21節 イエス様はツロとシドンの地方(現在のレバノン)、すなわち異邦人の地へ行かれました。
異邦人の地へ行かれたのはこの一回限りでした。
イスラエルとカナンは敵対関係にありました。それでもこの女性はイエス様に助けを求めました。娘を助けてください、という母親の心からの叫びですね。
最高の祈りだと思います。
23節 しかし、イエス様は一言もお答えになりませんでした。沈黙されたのです。イエス様はなぜ沈黙されたのでしょうか。カナンの女の信仰を試されたのだと思います。
弟子たちはこの女性があきらめずに叫びながら後についてくるので、「あの女を帰してやってください。」と言います。
癒してあげて、早く帰してやってください、という気持ちだったのだと思います。
24節 イエス様は沈黙を破られます。そして、私はイスラエル以外には遣わされていません。
異邦人のためには、すなわちあなたのためには遣わされていません、と言われたのです。
ご自身が父なる神から遣わされたのは、イスラエルの民のためであることを明確にされました。10:5−6
10:5 イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。
10:6 イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。
聖書を理解する上で神様の全体的なご計画を知ることはとても大切です。
まずここで見られるように神の福音はイスラエルに宣べ伝えられました。→しかし、イスラエルは拒絶しました。→
それで福音は異邦人(日本人を含む)に宣べ伝えられるようになります。
イエス様は後にこのように言われます。
マタイ21:43
だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。
→しかし、最後に福音はイスラエルへと戻って行きます。
パウロはこのように書いています。
11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。
その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。
紀元70年にイスラエルの国が滅んでからユダヤ人は世界中に離散されていましたが、1948年にイスラエルの国が建国され、ユダヤ人が世界中から集まって来ました。
今イスラエルではイエス・キリストを救い主として信じる人々がおこされてきています。
福音はパウロを通して異邦人世界(特にヨーロッパに伝えられ、それからアメリカ、南米、アジア、オセアニア、アフリカへ伝えられ、もちろん今もこれは進行中です)、
そして今、シルクロードを通って、中東を経て、福音をイスラエルへ戻そうという運動(バック・トゥウ・エルサレム運動・エルサレムへ帰れ運動)が起こっています。
特に中国のクリスチャンたちは準備をしています。
このような世界的な計画を神様は持っていましたが、しかし最初は、イエス様は明らかに伝道範囲を絞っていました。
最初は限定された中で働きをすることが大切であると教えられます。
使徒の働き1:8
1:8
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
私たちは福音宣教をするためにエルサレムへ行ってそこから始める必要はありません。私たちのエルサレムはどこでしょうか。
私たちのエルサレムは余市です。そしてユダヤは後志地方と言えるでしょう。
4月18日の三味線コンサートのためにチラシを配りますが、今回は古平と積丹にも配ります。
教会が一つもないこれらの地域に福音を伝えることは私たちの教会に与えられている神からの使命です。
最終的には福音は全世界に伝えられることが計画されていましたし、そのようになりました。しかし、最初から全世界ではなく、まずはイスラエルでした。
私たちも限定された中で働くことが大切です。まずは余市であり、そして後志地方です。今はここに集中しましょう。
25節 しかし、彼女は「そうですか、私は異邦人だからダメなのですね」と言ってあきらめることはしませんでした。ひれ伏してお願いしたのです。「主よ。私をお助けください。」
26節 パン=神の祝福、福音
子供たち=ユダヤ人をさしおいて、子犬=異邦人にあげるのはよくないでしょう、と言われたのです。
子犬より先に子供を養わなければならないでしょう、と言われました。
確かに私たちの家でもまさか子供たちよりも子犬を優先させて食べ物をあげることはないでしょう
(もしかしたらペットがあまりにも大切になりすぎて子供よりも優先させてしまうことがあるかもしれませんが(笑))。
27節 「主よ。そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
彼女は、子犬でも子供たちがこぼしたパンくずはいただきます、イエス様が使われた子犬とパンくずという言葉を使って答えています。
イエス様の答えに対して、非常に知恵のある、またユーモアすら感じる答え方をしています。これは本当に驚きですよね。またそこに信仰をも表明しているわけです。
彼女は見事にイエス様のテストに合格しました。
彼女は、ユダヤ人のためという神の本来のご計画を認めつつ、その枠を超えて物事を動かす熱心な信仰と祈りを持った人物でした。
28節 「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」とイエス様は言われました。
その信仰をほめられたのです。大切なことは、神の計画を認めること、あきらめないで祈りをもって願うことです。
すると、彼女の娘はその時から直りました。異邦人では百人隊長もほめられました(マタイ8:10)。彼女は立派な信仰を示し、豊かな報いを受けました。
この出来事は福音の恵みが異邦人にもたらされることの予表(先駆け)となりました。
イエス様の使命はイスラエルにありました。異邦人の時はまだ来ていませんでした。
しかし、ここで将来開かれる異邦人への道が示されています。
マタイはユダヤ人に向かってこの福音書を書いています。
しかし、このような出来事を記すことによって、ユダヤ人が異邦人に勝っていないことをユダヤ人たちに悟らせようと、また神の全体的なご計画を示そうとされているのだと思います。
<適用>
今日は、特にカナンの女性の信仰を見ました。
私たちも彼女のように神の自分に対する計画と神の教会に対する計画を認め、そして信仰を働かせ、単純に「主よ。私をあわれんでください」と祈りましょう。
「主よ。私の心を聖めてください」 <マタイの福音書15:1−20>
15:1
そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。
15:2
「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
15:3
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
15:4
神は『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言われたのです。
15:5
それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
15:6
その物をもって父や母を尊んではならない。』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。
15:7
偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
15:8
『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
15:9
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」
15:10
イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
15:11
口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」
15:12
そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」
15:13
しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。
15:14
彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」
15:15
そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください。」
15:16
イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
15:17
口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。
15:18
しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
15:19
悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
15:20
これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」
マタイの福音書は全部で28章ありますから、先週で半分終わり、今日から後半に入ることになります。
@1−11節
2節 パリサイ人や律法学者たちがイエス様に質問します。
「なぜあなたの弟子たちは、言い伝えを犯すのですか。なぜ言い伝えを守らないのですか。パンを食べる時に手を洗っていないではありませんか。」
イエス様は答えます。
3節 「そのように言うあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、なぜもっと大事な神の戒めを犯すのですか。なぜ神の戒めを守らず破るのですか。」
もちろんイエス様の答えは衛生的な意味ではありません。
イエス様の答えは、彼らが言い伝えを守ることによって事実上神の律法を破ることになっていることを指摘しているのです。
4−6節の説明 両親を敬うという律法を破る人々がいました。年老いた両親の面倒を見て養うことを逃れようとしたわけです。
そのような人々は、両親に向かって「大変お気の毒ですが、何もあげられません。私の持ち物は全部、神に捧げたので、神のものになってしまっています。」
と言って、両親への義務から逃れる者がいたのです。そのことをイエス様は指摘しているわけです。
それはイザヤの預言の通りでした(7−9節)。
人間の教えである言い伝えを権威あるものとしてしまって、本当に権威ある神の言葉を無にしてしまう危険性があります。
イエス様は律法を破ったことはありません。破ったのは口伝(言い伝え)です。
言い伝えはパリサイ人や律法学者たちだけの問題ではなく、ときには教会にもあるかもしれません。それは伝統であったり、教団教派の習慣かもしれません。
今は私たちの教会は開拓期ですからまだないと思いますが、年数を重ねていくうちにそのような言い伝え的なものによって、私たちが不自由になったり、
縛られたりしないように気を付けましょう。
私たちはそのような人間の教えではなく、神の教え、すなわち聖書の言葉に重きをおきましょう。
11節 口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。
口から出るもの。まさか吐いたものではありません(確かにこれも汚いですが)。
何が人を汚すのか。汚れというものが道徳的、霊的なものであることを教えようとしています。
大切なのは、人が儀式を守ることではなく、人の心の状態であることを示しています。
人はうわべを見るが、神は心を見られます、とある通りです。
神が重要視するのは、私たちの行動ではなく(もちろん行動も大切ですが)、私たちの動機であり、心の深くにある思いが何かということです。
このことを思う時に、私たちの心の中に罪があること、私たちの心に聖めが必要であることが分かります。
イエス・キリストが私たちの罪の身代わりに死んでくださり、聖霊によって私たちの心は聖められます。
「主よ、私の心を聖めてください」と願い、祈りましょう。
A12−14節
彼らは、人の教えに頼って、神の教えに耳を傾けない、天の父がお植えにならなかった木であるとイエス様から言われてしまいます。
すなわち信仰のない者たちであるということです。
また彼らは根こそぎにされる木であると厳しく言われます。それは裁きが待っているということです。そして彼らを放っておきなさいと言われます。
神から見放されることほど悲惨なこと恐ろしいことはありません。
更に彼らは盲人を手引きする盲人です、と言われます。彼らは自分たちが盲人であることに気付きません。自分たちは目が見えると思っています。
すなわち霊的な事がらが分かると思っています。しかし、実は彼らの目は閉じられていて霊的なことを全く理解できていません。
彼らについて行ってしまう人は悲惨です。
なぜなら彼らと一緒に穴に落ち込んでしまうからです。穴に落ち込むとは、言葉が厳しいですが、破滅してしまうということです。
人生において誰について行くべきかを選択することはとても大切です。
私たちは時々盲人とまでいかなくても、目が見えなくなることがあります。
その時に盲人の指導者に従ってしまうならば、彼らと同じ運命にあってしまいます。
すなわち穴に落ち込んでしまうのです。
しかし、たとえ私たちが目が見えない時でも、すべてを見えていらっしゃるイエス・キリストについて行くならば本当に幸いです。
そうすれば私たちは穴に落ち込むことはありません。イエス様が私たちを守り、穴に落ち込まないように助け導いてくださいます。
誰についていくか、何を信じるか、を選択することがこの時代において非常に大切だと思います。
あの時代、パリサイ人や律法学者について行った人々は穴に落ち込んでしまったのです。
現代において言うならば、例えばあるテレビのスターなどの考えについて行くならば、多くの場合、間違った方向に進むことになってしまうでしょう。
なぜなら彼ら自身が実は盲目だからです。
私たちは、イエス・キリストについていきましょう。私たちは人間の教えではなく、聖書の神の教えを信じ守りましょう。
B15−20節
15節 ここでもペテロが登場します。ペテロが弟子たちを代表して「意味がよく分かりません。説明してください」とお願いします。
17節 口に入る物は、害はありません。
18節 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
人は心にあふれてくることを語ります。ヤコブの手紙3:8−10
3:8 しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
3:9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
残念ながら私たちには口が二つありません。
二つあれば、呪いを言う専用の口と賛美を言う専用の口と分けることができるかもしれませんが、私たちには口が一つしかありませんのでそのようにはいきません。
呪いと賛美が同じ一つの口から出てきてしまうのです。
私たちは誰でも口で失敗する者だと思います。
19節 心から出て来るものが挙げられます。 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりです。
20節 これらは人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。
私たちの心が聖められますように→そうすれば口が聖められます。
19節の反対は御霊の実です ガラテヤ人への手紙5:22−23
これらの御霊の実が心にあれば、人を汚さなくなります。また神を汚さなくなります。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。
<適用>
「主よ、私の心を聖め、唇を聖め、人を汚すことがないように助けてください」と願い、祈りましょう。
また「私の心が聖められ、私の口から呪いではなく、賛美があふれるようにしてください」と願い求め、祈りましょう。
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2015年2月22日(日)
「イエスから目を離さないでいなさい」 <マタイ14:22−36>
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
14:23 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
14:24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
14:25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
14:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
14:28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
14:29 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
14:30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
14:31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
14:32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
14:33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。
14:34 彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着いた。
14:35 すると、その地の人々は、イエスと気がついて、付近の地域にくまなく知らせ、病人という病人をみな、みもとに連れて来た。
14:36 そして、せめて彼らに、着物のふさにでもさわらせてやってくださいと、イエスにお願いした。そして、さわった人々はみな、いやされた。
@22−23節
パンの奇跡の後、イエス様は祈るために、ひとりで山に登られました。
その理由が並行記事のヨハネの福音書6:15に書かれています。
6:15 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。
人々はイエス様の奇跡を見て、イエス様を王様にしようとしたのです。私たちも成功の後に高慢にならないように気を付ける必要があります。
成功の後ほどへりくだって、ひとりになって父なる神様との交わりを持つことが大切であることを教えられます。
A24−33節
弟子たちは舟に乗って向こう岸へ向かっていました。しかし、向かい風で波に悩まされていました。前に進むことができませんでした。
私たちにも人生の向かい風があり、波に悩まされ、前に進むことができない時があります。
弟子たちが悩んでいる時にイエス様は来てくださいました。
25節 イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
イエス様は向かい風で風に悩まされていた弟子たちを助けに来られたのです。イエス様は私たちをも助けに来てくださいます。
しかし、弟子たちは湖を歩いて自分たちに向かってくるイエス様を見て「あれは幽霊だ。」と言いました。 「あれは主だ。」と言えれば良かったのですが。
27節 イエス様は、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。
この状況で弟子たちが恐れたのは、ある意味仕方がないような気がします。恐いですよね。真夜中、真暗闇の中をこちらに誰かが来るわけですから。
私たちも状況に翻弄され、たとえイエス様の助けだとしても理解できないことで恐れてしまうことがあります。
でも覚えるべきことは、イエス様は私たちを助けに来てくださっているということです。そして「しっかりしなさい、勇気を出しなさい。
私が共にいる。恐れることはない。」と語りかけてくださっています。
このような状況で登場するのは誰でしょうか。ペテロです。
28−29節 ペテロの信仰、勇気、挑戦。ペテロは「私にも湖の上を歩かせてください」と言います。普通言えないですよね。
イエス様が「来なさい」と言ったので、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行きました。
イエス様を見ていた間は、驚くべきことに、ペテロは水の上を歩くことができました。
30節 しかし、ペテロがイエス様から目をそらし、風を見た時に、我に返り現実を見た時に、恐くなり、沈みかけてしまいました。
なぜ、歩けてるのか。と理性的になってしまったわけですね。
31節 イエス様はその沈みかけたペテロに手を伸ばしてつかんで引き上げ、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われました。
十二弟子が乗っていた舟。ペテロは失敗者のように見えます。しかし、イエス様の働きを経験したのも他ならぬペテロでした。
舟の中にいるのはある意味安全です。失敗をしないかもしれません、沈まないかもしれません、しかし神の奇跡も体験できないわけです。
舟の外に出るのは危険かもしれません。沈むかもしれません。失敗をするかもしれません、でも神の奇跡を体験できるチャンスがあります。
一歩踏み出すことが大切です。今いる場所、船の中から舟の外へ出ることが重要です。これが信仰です。
すべてを理解できたら一歩踏み出します、というならずっと新しい領域へ踏み出すことができないかもしれません。
私たちには信仰による飛躍が求められています。理解を超えたところでのチャレンジです。その時に大事なことはイエスから目を離さないでいることです。
ヘブル人への手紙12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
ペテロはイエス様から目を離さず、イエス様を見ている時は、イエス様を見つめている時は、水の上を歩くことができたのです。
32節 ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
イエス様は自然界を支配しておられます。
33節 舟の中にいた者たち、すなわち弟子たちは、イエス様を礼拝し、「確かにあなたは神の子です。」と言いました。素晴らしい信仰告白ですね。
モーセは、マナを降らせ、海の水を分けました。もちろん神の力によってですが。
第二のモーセであるイエス様も、パンの奇跡を行い、今こうして湖の風をしずめ、自然界を制するというみわざをされました。
B34−36節 癒しのみわざ
ゲネサレの地での癒しのミニストリー
<適用>
ペテロは失敗をした人ですが、最後には神に用いられた人物でした。聖書学者のバークレーという人は、このように書いています。
「ペテロが素晴らしいのは、倒れても必ず立ち上がったことであった。そしてこの失敗によって、彼は一層、イエス・キリストに近づいたにちがいない。
よく言われるように、聖者とは、絶対に倒れない人ではなくて、倒れても立ち上がって前進する人である」
私たちはイエス様が「来なさい」というなら、ペテロのように舟の外へ出ましょう。
そしてイエス様から目を離さないように気を付けましょう。
私たちの人生という舟にイエス・キリストをお迎えし、入っていただくならば、人生の様々な風や嵐は静められます。
イエス様は自然界を支配し、また私たちの人生を治め、教会の歩みを治めてくださっています。
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2015年2月15日(日)
「私たちが持っている五つのパンと二匹の魚」 <マタイ14:1−21>
14:1
そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、
14:2
侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」
14:3
実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、牢に入れたのであった。
14:4
それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です。」と言い張ったからである。
14:5
ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。
14:6
たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。
14:7
それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。
14:8
ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」
14:9
王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。
14:10
彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。
14:11
そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。
14:12
それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。
14:13
イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。
14:14
イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。
14:15
夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。
そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」
14:16
しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
14:17
しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
14:18
すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」
14:19
そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに
与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
14:20
人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。
14:21
食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
<序論> NHK連続テレビドラマ「マッサン」にエキストラ出演した話。先週ウィスキー初出荷の際の馬車への詰め込みと、見送りのシーンでテレビに
それなりに映っていました。5時間の撮影に参加した甲斐がありました(笑)。
@1−12節 バプテスマのヨハネの死
国主ヘロデ=ヘロデ・アンティパス(ガリラヤ・ペレヤを統治)。
幼子イエス様を殺そうとしたヘロデ大王の息子。アケラオ(ユダヤ・サマリヤを統治)の弟。
2節 教父オリゲネスによると、イエスの母マリヤとバプテスマのヨハネの母エリザベスは近い血縁関係にあったので(ルカ1:36)、イエスとヨハネは互いに
非常に似ていた、という伝説があると言っています。
3節 ヘロデ・ピリポ、すなわちヘロデ・アンティパスの異母兄弟(腹違いの兄弟)。
ヘロデ・ピリポの妻であるヘロデヤは、娘サロメを伴って、ヘロデ・アンティパスと結婚しました。
すなわち近親相姦です。今だったら週刊誌にのるようなスキャンダラスなニュースと言えます。
4節 この罪をヨハネが指摘しました。そのために牢に入れられてしまいました。
サロメの踊り→彼女の願い→母ヘロデヤのそそのかし→ヨハネの首がはねられ、持って来られました。
12節 ヨハネの弟子たちがこのことをイエス様に報告しました。
バプテスマのヨハネはイエス様の先駆者でした。この報告を聞いたイエス様は何を思ったでしょうか。先駆者であるヨハネが死んだのだから、自分の死も
近づいていることを意識し始めたと思います。
A13−14節
イエス様は寂しい所に行かれました。悲しい時は、寂しい所に行き、神様と一人向き合うことが大切であることを教えられます。イエス様は、先駆者であり、
自分に洗礼を授けてくださり、自分の親類であったヨハネの死を悲しみました。また自分の死が近づいていることを知って悲しみました。
しかし、群衆はそんなことはお構いなしでイエス様の後を追ってきます。イエス様は群衆を見て、深くあわれみました。自分の事で本当に疲れていたはずです。
しかし、イエス様は視線を内側(自分自身)ではなく、外側(他の人々)に向けました。私たちもあまり内側を見ていると、病気になってしまいます。
そうではなく、イエス様のように悲しみの中にあっても内側から外側に視線を移しましょう。イエス様は彼らの何を憐れんだのでしょうか。
彼らの病気を憐れまれたのです。そして病気を癒されたのです。ヒーリング・ルームが人々の癒しのために用いられるようにお祈りください。
B15−21節 5千人の給食
4つの福音書に唯一書かれているイエス様の奇跡の記事です(復活を除いて。復活はイエスの奇跡というよりも父なる神の奇跡)。
夕方になって人々はお腹をすかせていたので、弟子たちはイエス様に群衆を解散させるように言いましたが、イエス様は弟子たちにあなたたちが用意しなさいと
命じられました。そこで彼らは食べ物を探しました。そして見つけ、五つのパンと二匹の魚を弟子たちがイエス様のところへ持ってきました。
ヨハネの福音書を6:5−9を見ると、アンデレが持って来たことが分かります。
省かれることなく、イエス・キリストの生涯を書いている4つの福音書すべてに記されたのだと思います。
これは旧約時代のマナの奇跡のようでした。イスラエルの民を神様が天からのマナ(パン)を持って養いました。
5千人と書いていますが、女性と子供を入れたらおよそ1万5千人〜2万人いたといわれています。私たちの前にも群衆がいます。
余市町の人口は2万人です。私たち自身と私たちの教会は五つのパンと二匹の魚のようなものだと思います。全く足りません。しかし、大事なことは私たちが
全く足りないと言ってあきらめるのではなく、隠すのではなく、地に埋めてしまうのではなく、アンデレのように、私たちが今持っているものをイエス様のところへ
持っていくことだと思います。私たちの献身の心、私たちの賜物、私たちの時間やエネルギー、私たちのお金など。
イエス様はそれらを祝福して、増し加えてくださいます。そして人々が満ち足りるようにしてくださいます。祝福し増やすのは神様の働きですが、私たちの働きは
今持っているものをイエス様に差し出し、他の人々に配ることです。私たちは神と共に働く者たちです。
今あるものをイエス様に差し出すならば、イエス様は祝福し増やしてくださいます。この世の原理は与えれば減るということになるでしょう。
しかし御国の原理は与えれば増えるのです。
20節 人々は満腹になり、満たされました。霊肉共に強められました。腹が満たされ、またイエス様のみわざを見て霊も満たされたことでしょう。
そして余りを集めると12かごにいっぱいありました。12弟子たちの数と同じです。非常に印象深いです。弟子たちにも残った、ということは神の恵みですね。
私たちにも祝福は残されるということが示されていると感じます。与えると、配ると、他の人々が満たされるだけでなく、最後には私たちも満たされることになります。
イエス・キリストがいのちのパンです。
ヨハネの福音書6:35
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
イスラエルの民は日ごとにマナを神様から受け取りました。
主の祈りにおいて、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈るように教えられています。経済的な必要を祈るとともに、日ごとに霊の糧をお与えくださいと
祈って聖書を読み、いのちを受けましょう。そして霊と信仰を強めていただきましょう。私たちの霊を祝福していただきましょう。そうすれば、私たちは人々に祝福を
流すことができます。私たちが受けたいのちを人々に流すことができます。受けて与える、受けて与える。この繰り返しがクリスチャン生活であると言えると思います。
<適用>
私たち一人一人の手の中にはすでに五つのパンと二匹の魚があります。それは何でしょうか?
それをイエス様に差し出しましょう。
神様は増やして、それを用いて人々の必要を満たしてくださいます。
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2015年2月8日(日)
「天の御国の特徴 パート2」 <マタイ13:44−58>
13:44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払って
その畑を買います。
13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
13:51 あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。
13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」
13:53 これらのたとえを話し終えると、イエスはそこを去られた。
13:54 それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで
得たのでしょう。
13:55 この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
13:56 妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」
13:57 こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
13:58 そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。
イエス様は天の御国についてたとえを用いて話され続けます。
@44−46節
天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。イエス・キリストこそまことの宝です。福音(旧約聖書と新約聖書)はこの宝が隠されている畑と言えます。
聖書から私たちはイエス・キリストという宝を見つけ出すことができます。
天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。真珠は高価で美しいものです。天国こそ最も美しい場所です。
前者は偶然見つけました。後者は熱心に捜して見つけました。見つけ方は違いましたが、見つけた後は同じです。
持ち物を全部売り払ってでも手に入れようとしました。
ここに天の御国の測り知れない価値があらわされています。偶然道端に落ちていたトラクトを見て教会に導かれイエス様を信じる人がいるでしょう、
また熱心に真理を求めて教会に来てイエス様を信じる人がいるでしょう。イエス様との出会い方は違いますが、出会った後は同じです。
すべてを置いてでも手に入れようとするほどにイエス様には絶大な価値があるのです。救いには価値があるのです。罪の赦しには価値があるのです。
A47−52節
天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引網のようなものです。この世界は広く広がる海と言えます。福音を伝えるとは、この海に(世界に)
網をおろすことと言えます。様々な人々が釣れます。様々な人々が教会に導かれます。
48節 良い物は器に。悪い物は捨てる。悪いもとのは食用として食べられないということです。
49節 世の終わりにはそのようになります。40−42節の麦と毒麦のたとえと非常に似ています。最初は区別がつかないのです。
最初は神の民とそうでない民が共存します。区別がつきにくいのです。いつの時代でも、どの教会でも、同じことが言えると思います。
クリスチャンよりも親切なノンクリスチャンはたくさんいます。ノンクリスチャンより親切でないクリスチャンがたくさんいます。
見た目では誰が救われていて、良い者であるかは分かりにくいのです。しかし、終わりの時にはっきりして、分けられます。
52節 天の御国の弟子(イエス様の弟子)となった者たちは、御国についての知識を豊かに持つようになります。
古くから隠されていたもの(旧約聖書)が明らかにされます。またイエス様による福音(新約聖書)の解き明かしを聞くことになります。
B53−58節
54節 イエス様はご自分の郷里であるナザレに来られました。
57節 ナザレの人々はイエス様につまずきました。 イエス様は言われました。
マタイ11:6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。
先入観と偏見は、イエス・キリストを信じる信仰を阻む障害となります。
58節 不信仰は神の力と働きを制限します。
力を引き出すのか(もちろん説教者にも大きな責任があります)。賛美にも同じことが言えます。すなわち私たちの礼拝の霊的な雰囲気はどういうもので
あるかということです。決してわざとらしく霊的な雰囲気を作り出そうとしてはいけません。
しかし、礼拝の中に神様に対する信仰と期待が必要です。それが神のわざを体験する秘訣です。
更にイエス様に対して、聖霊様の働きに対して心を開き、期待して集まりましょう。私たちはナザレの町に住んでいた人々のようになってはいけません。
余市の町はナザレの町のようになってはいけません。
私たちは不信仰ではなく信仰を持って、マンネリではなく期待を持って、イエス・キリストをこの余市の町と余市カナンの丘キリスト教会にお迎えしましょう。
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2015年2月1日(日) 聖餐式
「天の御国の特徴」 <マタイ13:24−43>
13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
13:27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
13:28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
13:29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。
麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
13:31 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、
13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
13:33 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体が
ふくらんで来ます。」
13:34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。
13:35 それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」
13:36 それから、イエスは群衆と別れて家にはいられた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言った。
13:37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
13:38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
13:40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
13:41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、
13:42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
13:43 そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。
マタイ13:1−23は昨年の収穫感謝礼拝で説教したのでとばしたいと思います。
イエス様はたとえで天の御国について話されます。農業を通してのたとえなので私たちに比較的馴染みがあると思います。
43節 耳のある者は聞きなさい。 とありますから、実際の耳と霊的な耳を開いて聞いていきましょう。
@24−30節
天の御国はこのような人にたとえることができます。
24節 ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
25節 人々の眠っている間=夜 敵が来て毒麦を蒔いた。
当時実際にこのようなことをする人がいたようです。
26−29節 毒麦 はじめは区別がつきにくいが、だんだんと色が黒くなってくるので見分けがつきやすくなるようです。
30節 収穫の時まで、待ちなさい。その時がきたら、毒麦は焼き、麦は倉に納めなさい。
収穫感謝礼拝でみた13章のはじめのところでは、種が蒔かれた場所が問題とされました。道ばた、土の薄い岩地、いばらの中、良い地。
今回は種の種類が問題になっています。麦と毒麦の種。
A31−35節
31−32節 天の御国はからし種のようなもの。
非常に小さい種→生長すると(成長すると)とても大きくなる。3−4メートルの木になるようです。
福音が外に拡大する生命力を示しています。
33節 天の御国はパン種のようなもの。
パン種は聖書では悪影響を及ぼすものとされることが多いですが、ここでは福音が内的に(内側から)変革していく生命力としてあらわされています。
この2つのたとえは、福音(イエス様の働き、教会の働き)の外的・内的(量的・質的)両面における驚くべき成長と発展を示しています。
最初は小さいですが、いのちがあるので大きくなるなるわけです。ここに私たちの希望があります。
最近「21世紀の資本」という本が話題になっています(私も購入して読んでいる途中です)。著者は膨大なデータを調べて本を書きました。
ここに「自然に成長する教会」という本があります。これも多くのデータを調べて、自然に成長する教会にはどのような特徴があるかを書いています。
著者が言いたいのは、本来的には教会にはイエス・キリストのいのちがあるので自然に(ほっといても)成長するはずだというものです。
ちょうど農夫が種を蒔けば、その種にいのちがあるので、芽が出て、実を結ぶように。農夫がすることは、雑草をとったりして環境を整えることです。
著者はこの本で自然に成長する教会の8つの質的特徴を書いているので紹介したいと思います。
1.権威分与的リーダーシップ 2.賜物に基づいたミニストリー 3.霊的な熱心さ 4.機能的組織構造 5.生き生きとした賛美と礼拝
6.多機能的小グループ 7.ニーズ志向的伝道 8.愛にあふれる関係
34−35節 イエス様はたとえで話された。これは預言の成就です。
収穫感謝礼拝で読まなかった箇所を読みましょう。
マタイ13:10−17
13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
13:14 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。
13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしに
いやされることのないためである。』
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
13:17 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いて
いることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。
B36−43節
36節〜 弟子たちに毒麦のたとえを説明する。
37節 良い種を蒔くのは人の子=イエス・キリストご自身
38節 畑=この世界 良い種=御国の子供たち 毒麦=悪い者の子供たち
39節 毒麦を蒔いた敵=悪魔 収穫=この世の終わり 刈り手=御使い
40ー42節 毒麦が集められて火で焼かれたように、この世の終わりには悪い者の子供たちもそのように地獄の火で焼かれてしまいます。
そこに入った者は泣いて歯ぎしりします。それも永遠にです。何と恐ろしいことでしょうか。現代の教会は地獄について語られなくなったと言われますが、
イエス様ほど地獄に言及されているお方はいません。
オズワルド・スミス師は「魂への情熱」という本でリバイバルが起こるところでは、地獄についてのメッセージがなされていると書いています。本から引用します。
「どのリバイバルでも、強調される主題が五つあります。それは罪と救い、天国と地獄、そしてさばきです。
かつての罪の自覚と救いをもたらすためには、これらの五つの主題が宣言されなければならないのです。
まず第一に、罪が強調されねばなりません。、、、、それからリバイバリストは、罪に対する神の救済手段である救いを強調しなければなりません。
また、天国と地獄を除外することもできません。、、、、、最後に、さばきがあります。」
43節 正しい者たち、すなわち御国の子供たち、福音(イエス・キリスト)を信じる者たちは、御国で、すなわち天国で、太陽のように輝きます。
永遠の祝福が待っているのです。ここに私たちの慰めがあります。
種(神の言葉)にいのちがあるので、実が結ばれ、収穫されます。また最初は小さいが、大きくなります。これが天の御国の特徴です。
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2015年1月25日(日)
「霊的家族の大切さ」 <マタイ12:38−50>
12:38
そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」
12:39
しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。
12:40
ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。
12:41
ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めた
からです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。
12:42
南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから
来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。
12:43
汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。
12:44
そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。
12:45
そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、
初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」
12:46
イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。
12:47
すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」
12:48
しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」
12:49
それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
12:50
天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
@38−42節
39−41節 イエス様の答えは、預言者ヨナのしるしの他にはしるしは与えられない、というものでした。
BC8世紀 ヨナはアッシリヤ帝国の首都ニネベに対する宣教命令を神から受けたが、神から逃げ、海に投げられ、大きな魚に飲み込まれました。
その魚の中で三日三晩を過ごした後、陸地に吐き出され、宣教を行ないました。これはイエス・キリストの十字架と復活の予表でした(40節)。
人の子イエス・キリストは、地の中(墓の中)に三日三晩いることになったのです。
ヨナは奇跡を一つも行ないませんでした。それでもニネベの人々は悔い改めました。ヨナ書3:4−6
3:4
ヨナは初め、その町にはいると、一日中歩き回って叫び、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と言った。
3:5
そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。
3:6
このことがニネベの王の耳にはいると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。
一方イエス時代の人々はイエス様の働き(しるし)を見ても、説教を聞いても悔い改めませんでした。彼らに欠けていたのは、イエスのしるしではなく、
その説教の言葉としるしを受け止める柔軟な心でした。
42節 イエス様はヨナより、またソロモンよりもまさったものです。
旧約時代、神様が立てられた三つの重要な職務がありました。祭司と預言者と王です。イエス様は、旧約聖書のすべての職務に勝るお方として到来されました。
5−6節 宮(祭司)より大きな者
41節 預言者ヨナより勝った者
42節 ソロモン王(ダビデ王・3−4節)より勝った者
A43−45節
イエス様は、人から悪霊が追い出されても、神の国が来ないと、そしてその人の心に神の国が打ち立てられないと、空き家同然になってしまい、ついには
悪霊が7倍になって戻って来てしまう、と言われました。
悔い改めて、悪い者を追い出し、まず空き家にして、その後その心を聖霊に満たしていただけるなら大丈夫です。
しかしそうではなく、悔いて一時的に良くなっても、イエス様(教会)から離れると反動が来て、大抵は最初の状態よりも悪くなってしまうわけです。
ここに危険がひそんでいます。
B46−50節
46節 イエス様のお母さんと兄弟たちの名前が13章を見ると分かります。
マタイ13:55−56
13:55
この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
13:56
妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」
父ヨセフはすでに死んでいたのでしょう。
イエス様の家族がイエス様を連れ戻すためにナザレからカペナウムに来ました。イエス様は気が狂っていると言われていたのです。
そのうわさがカペナウムからイエス様の家族が住んでいたナザレまで届いたのでしょう。
並行箇所のマルコの福音書3:21−22にはこのように書かれています。
3:21
イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである。
3:22
また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを
追い出しているのだ。」とも言った。
これまでイエス様は御国のことを第一にせよと弟子たちに教えてこられました。弟子が味わう厳しさを語ってこられました。 マタイ10:37
10:37
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
48−50節 しかしここでは、ご自分の家族に当てはめて話しておられます。
※イエス様は、御国のメンバーたちをご自分の家族と宣言されました。驚くべき宣言です。事実上、天の御国の家族の方が、通常の家族よりも大切であると
言われたのです。血筋による家族関係よりも、霊的な家族関係を第一にすべきであると言われたのです。なぜなら、血縁の家族関係はこの世で終わってしまいますが、霊的な家族関係は永遠に続くからです。父の御心を行なう者が私の家族であるとイエス様は言われたのです。イエス様と弟子たちとの強い結びつきが伝わってきます。私たち教会はイエス様を中心とした霊的な家族です。
イエス様の復活後、このイエス様のお母さんであるマリヤや兄弟たちは完全に変えられました。使徒の働き1:14
1:14
この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。
以前は自分の息子であり、兄であるイエスを気が狂っていたと考えていた母マリヤと兄弟たちが、イエス様の十字架と復活というしるしを通して、
イエス様を救い主と信じるに至ったのです。後に弟のヤコブはエルサレム教会の指導者になり、ヤコブの手紙を書きました。
また弟ユダはユダの手紙を書いています。
願わくは私たちの大切な血縁の家族が霊的な家族に加えられますように。
その方々が私たちの教会に、余市カナンの丘キリスト教会に、すなわち私たちの霊的家族に加えられることを祈っていきましょう。
また父の御心を行なうことを通して、イエス様の真の霊的家族として歩んでいきましょう。
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2015年1月18日(日)
「神の国は来ている」 <マタイ12:1−37>
12:1
そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
12:2
すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
12:3
しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
12:4
神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
12:5
また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
12:6
あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
12:7
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めは
しなかったでしょう。
12:8
人の子は安息日の主です。」
12:9
イエスはそこを去って、会堂にはいられた。
12:10
そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。
これはイエスを訴えるためであった。
12:11
イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げて
やらないでしょうか。
12:12
人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」
12:13
それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。
12:14
パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。
12:15
イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、
12:16
そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。
12:17
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
12:18
「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。
12:19
争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
12:20
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。
12:21
異邦人は彼の名に望みをかける。」
12:22
そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。
12:23
群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」
12:24
これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」
12:25
イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。
12:26
もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。
12:27
また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。
だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。
12:28
しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
12:29
強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。
そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。
12:30
わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。
12:31
だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。
12:32
また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、
赦されません。
12:33
木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。
12:34
まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。
12:35
良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。
12:36
わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。
12:37
あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」
今日の説教タイトルは28節から取りました。
@1−21節 安息日論議
2節 パリサイ人たちは穂を積んでいるイエスの弟子たちに、あなたがたは安息日に仕事をしている、と非難しました。
3−4節 イエス様はダビデの例(Tサムエル21:1−6)を引用されて、人間の必要が優先されると答えられました。
ダビデは非難されなかったではないか、私イエスはダビデより勝る者であるから非難される筋合いはない、と。
ここでダビデより偉大なダビデの子イエス、宮より祭司より偉大な大祭司イエスを明らかにしています。
神が人に真に望んでいることは、規則を守ることよりも、あわれみを実践することです。パリサイ人たちは律法の大切な精神を理解していませんでした。
それゆえに罪のない者たち(弟子たち)を罪に定めてしまったのです。
ユダヤ教の伝承がどうあれ、神の目からは、弟子たちの行動は責められるべきものではありませんでした。
弟子たちはユダヤ人の伝承を破ったかもしれませんが、神のみ旨に反する行動を取ったわけではなかったのです。
マルコ2:27 イエス様は言われました。
2:27
また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」
9−21節
ここではパリサイ人たちは、安息日に人を癒やすことを非難しました。
イエス様はそれに対して、羊との比較を通して、人間は羊より優れていること、安息日に良いことをするのは正しいということを示されました。
そして癒しの御業をなさいました。パリサイ人たちは病気の人に対するあわれみを忘れていたのです。
A22−32節 悪霊追い出し
22−24節 ここでは悪霊を追い出し、癒やしを行なったイエス様に対し、パリサイ人は悪魔の力で悪霊を追い出しているのだと非難しました。
25−27節 イエス様は、神がサタンを追い出すことはあっても、サタンがサタンを追い出すことはない、内部分裂をすればどんな共同体も立ち行かない、と
言われました。
28節 イエス様は御霊の力によって悪霊を追い出したのです。それが神の国が来ている証拠でした。
マタイの福音書11:12 イエス様は言われました。
11:12
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
神の国を激しく求めていきましょう。
私はビル・ジョンソン東京聖会で癒しの扉が開かれたことを感じたと先週話しました。また元旦礼拝ではアクションの大切さを語りました。
そこで私なりの信仰のアクション(行動)として、「Healing Room ヒーリング・ルーム(癒しの部屋)」を教会で始めたいと思わされています。
病の癒しを求める方々のために祈るミニストリーです。
それは私のアクションですが、それぞれが毎週語られる説教に応答して、信仰のアクション(行動)をおこしていきましょう。
小さな始まりを軽んじてはいけないと思います。リバイバルは数人の祈り会から始まるのです。
29節 強い人を縛る 強い人とは、サタンのことです。サタンを縛ることによって、人々をサタンの束縛から奪い返すことができるのです。
強い人、すなわちサタンと悪霊を縛ることによってはじめて人々を解放することができるのです。神の国が来ることによって、サタンの国が蹴散らされていくのです。
ですから主の祈りにあるように、「御国が来ますように」と祈りましょう。
30節 神と悪魔との対決 中立状態はありえません。私たちは神の側につき、イエス様と共に集める者たちとなりましょう。
31−32節 イエス様の悪霊追い出しは御霊の力によってなされていたのですが、パリサイ人たちはそれを悪霊の力とした点(ことば)を指しています(24節)。
聖霊の働きを拒否する態度がいかに危険であるかが分かります。
B33−37節 語る言葉の大切さ
34節 心に満ちていることを口が話すのです、とイエス様は言われました。直接的には、パリサイ人がイエス様を悪魔の仲間と呼んだことば(24節)を指していると
思います。しかし、これはすべての人に当てはまるでしょう。私たちは語る言葉によって失敗する者たちだと思います。
36−37節 イエス様は、裁きの日にその話した言葉によって裁かれる、と言われます。私たちの口を主に聖別していただけるなら幸いです。
今日の説教で伝えたかったのは、神の国が来ている、ということでした。
最後にマタイの福音書17:19−21を開きます。
17:19
そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
17:20
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、
『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
17:21
〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」
イエス様は御霊の力によって悪霊を追い出し、霊的戦いに勝利されました。神の国が来ていたのです。イエス様によって神の国はすでに到来しています。
もちろん完全な神の国の到来はイエス様の再臨まで来ません。しかし、神の国は来ています。更に神の国が来るように求めていきましょう。
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2015年1月11日(日)
「すべての重荷を負って下さるイエス様」 <マタイ11:20−30>
11:20
それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
11:21
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に
荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
11:22
しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
11:23
カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムで
なされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。
11:24
しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
11:25
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、
幼子たちに現わしてくださいました。
11:26
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
11:27
すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に
定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
11:28
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
@20−24節 神の裁き
ここで言及されている町々は、福音宣教に応答して悔い改めませんでした。福音の言葉に応答せずに拒むことがいかに重い罪であるかが分かります。
創世記19:24−25
19:24
そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、
19:25
これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。
ソドムは硫黄の火によって神に裁かれました。福音を拒んだ町々(人々)は地獄の火によって神に裁かれてしまうのです(黙示録20:15)。
余市町とこの地域の上に神の国が来るように祈りましょう。神の国(救い)が来るように祈りましょう。
A25−27節 神の主権
幼子は福音に近い者たちです。子供たちは神様にとって特別な位置を占めています。
マタイの福音書18:3 イエス様が言われました。
18:3
言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」
幼子のままのような成長しない信仰では困りますが、しかし、いつでも幼子のように単純に心開いて神の国(福音に含まれるすべて)を受け入れ続ける者で
ありたいと思います。
27節 ここには神の主権が書かれています。
この地域に神によって救いに定められている人たちが確かにいます。選びの民がいます。その方々が確実に父なる神とイエス様を知ることができるように祈りましょう。
疲れ、重荷を負っている者たちも福音に近い者たちです。なぜなら、自分の限界、人間の限界に気づき、神の助けを求めるようになるからです。
イエス様は私たちの人生の重荷を負い、疲れを癒してくださるお方です。イエス様の元に行きましょう。休息と安らぎ(平安)が与えられます。
私たちは自分の重荷を神様の御前に降ろすことができます。神にゆだね、明け渡すことができます。
イエス様は「わたしのところに来なさい」と私たちを招いておられます。礼拝とはイエス様のところに来て(行って)、重荷を降ろすことでもあります。
そして神様から休息と平安をいただいて、新しい力を得て、一週間を過ごしていくのです。神様が与えてくださる休息と平安は、この世が与えることのできない
特別なものです。
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2015年1月4日(日) 新年礼拝
「イザヤが見た幻」 <イザヤ書6:1−8>
6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、
二つで飛んでおり、
6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私が
おります。私を遣わしてください。」
<序論>
イエス様は幻を持ち夢を持ち、ビジョンに生きました。人類の救いを十字架で成し遂げ、弟子たちに聖霊を下し、教会を建て上げました。全世界を回復へと導くビジョンを持ち、ビジョンの達成にいのちをかけました。
イザヤも幻を見ました。神様から幻を見せられたのです。神様からビジョンが与えられました。私たちは何を見ているでしょうか。
どのように生きることを選択するでしょうか。人生を神様から与えられている使命に生きることができる人は幸いだと思います。
イザヤが見たものは3つありました。すなわち3つのビジョンです。これが今日の説教のアウトラインになります。
1)イザヤは神を見ました。1−3節 上を見ました。
1節 高くあげられた王座に座しておられる主を見た。
これは天的なものでした。ウジヤ王が死んだは紀元前740年頃です。この王様の死がどれほど国にとって不幸な出来事かを知って
嘆き悲しみました。そういう状況の中でイザヤは栄光の主を見たのです。不幸な状況の中でも、私たちがイザヤのように主を見ることが
できるなら幸いです。私たちは上を見上げて主を見ているでしょうか。預言者イザヤは栄光の主を見ました。聖なる神を見ました(3節)。
この神は王なる主でありました。
ヨハネの福音書12:41
12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
イザヤが神殿で見た神の栄光の幻は、御子イエス様の栄光でもありました。
主ご自身を見ること、これが最優先事項です。どのように主を見るか。神の宮であり神の神殿である教会に来て、礼拝を捧げることを
通して私たちは主を見ます。=礼拝共同体
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
神が喜ばれるのは砕かれた魂です。イザヤの不義が義に変えられ、罪が贖われ、赦されました。
二つのことが大切です。自分の罪に絶望すること。同時に自分の罪が赦されていることを確信すること。
これがイエス・キリストにある私たちのアイデンティティーです。罪人にして義人。義人にして罪人。
この確信が弟子共同体の基礎になります。
イエス様は言われました。 マタイの福音書9:2
すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、
「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
今日、イエス様は私たち一人ひとりにも語っておられます。「子(ぜひ自分の名前を入れてください)よ。しっかりしなさい。
あなたの罪は赦された。」
3)イザヤは世界を見ました。 8節
イザヤは滅び行く世界を見ました。その時に神様の御声を聞きました。天における会議が開かれていたのでしょう。
三位一体の神による会議です。父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊です。だから「われわれのため」と複数形になっています。
「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」 神を見て、自分を見て、世界を見ている人は、イザヤと同じ御声を聞きます。イザヤは応答しました。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」 =宣教共同体
私たちはこの世界をどのように見ているでしょうか。この世界は確実に滅びに向かっています。
<結論>
イザヤは高い幻を見ました。高く上げられた主を見ました。
イザヤは低い幻を見ました。自分の内面の底を見ました。
イザヤは広い幻を見ました。滅びに向かっている全世界を見ました。
私たちがイザヤのように祈りとみことば、賛美と礼拝を通して主を見、キリストによって罪が赦されている自分を見、
失われている世界を見ることができるならば幸いです。
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2015年1月1日(木) 元旦礼拝
「小さいことを忠実に」 <Uペテロ3:9>
3:9
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるので
あって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
今日は、パッション、ミッション、アクションという3つのポイントを持って語りますが、3番目のアクションに重点を置きたいと思います。
1)Passion パッション(情熱)
・リバイバルへの情熱 神様の確かな働きを体験できるように。
・魂の救いへの情熱 人々の救いに対する熱い思いを持つことができるように。
・教会成長への情熱 自分の教会を愛する思いを持つことができるように。
働きはパッション(情熱)から始まります。
2)Mission ミッション(使命) 次にミッション、使命感です。
・リバイバルへの召し(祈り)
神様の確かな働き、すなわちリバイバルを求めるのに最も必要なのは祈りです。リバイバルへの情熱がある証拠は祈りです。
祈りの働きに召されているという確信と使命感が大切です。
・伝道者(証し人)への召し
イエス・キリストの福音を語ることができるのはクリスチャンだけです。日本において礼拝出席者は0.2%と言われています。
この事実によって私たちは一人ひとりが証し人として召されていることを確信することができるはずです。
・教会を建て上げる者への召し
日本に教会は多くありますが、私たちは余市カナンの丘キリスト教会に導かれています。神様が用意してくださった余市カナンの丘キリスト教会に植えられ、
自分が家族の一員、チームの一員であるという確かな所属意識によって、教会を建て上げる者になることができます。
3)Action アクション(行動) 最後はアクションです。
ビジョンは大きく、しかし、日々の歩みは小さなことを忠実に一歩一歩進むことが大事です。
@祈る者になる(個人の祈り・教会の祈り会)
マタイの福音書26:40−41
26:40
それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、
わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
26:41
誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
イエス様が十字架に架かる前に、イエス様は弟子たちに心を合わせて祈ってもらいたいと願っていました。しかし、弟子たちはイエス様の苦しみを
理解できずに、眠くなってしまい、寝てしまいました。私たちはどうでしょうか。イエス様の願いは、リバイバルが起こることです。人々が滅びず、悔い改め、
救われることです。イエス様は私たちにも、イエス様と同じ思いを持ってもらいたいと願っています(Uペテロ3:9)。
イエス様は今、天で祈っておられることでしょう。私たちに目をさまして共に祈ることを願っておられます。
A伝道する方法を考え、実践する
Tコリント9:22−23
9:22
弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、
幾人かでも救うためです。
9:23
私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
使徒パウロはすべてを福音のためにしました。すべてのことを人々の救いのためにしました。パウロを見習い、私たちも福音のためにできることを何でもしましょう。トラクト配布、集会に誘う、個人で証しをする、人々に親切にする。様々なことができると思います。それぞれが日々の生活でできることをしましょう。
B教会に貢献する
Tテサロニケ5:11−15
5:11
ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。
5:12
兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。
5:13
その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。
5:14
兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
5:15
だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。
昨年最後の感謝礼拝でTテサロニケ5:16−18で、「喜び、祈り、感謝」について語りましたが、この箇所はその続きです。
・ 礼拝出席
・
献金(福音宣教の働きのために使います)
・ 交わり(互いに励まし合うこと) Tテサロニケ5:11
・ 奉仕(受ける者ではなく、与える者になること)
など。
ビジョンは大きく持ちたいですが、今年はそれ以上に、目の前にある自分(自分たち、教会)ができることを忠実にしていくことのできる群れで
ありたいと願います。
小さくてもいいので、アクション(行動)を起こしていきましょう。新しいことにチャレンジしていきましょう。